江藤俊哉の思い出(05-5-25)
たいへん面白く、充実したお便り、何よりも楽しませてもらいました。 あんな文章だと、どんな長編でも結構です。
ハイフェッツかスターンの話。 あれは日本での出来事ですか。 それで思い出したのが、江藤俊哉です。
ある日テレビで見ていたのですが、多分14インチの白黒が普通だった頃でしょう。 江藤俊哉がオーケストラと協演していましたが、彼が演奏中、自分のバイオリンをアゴから外し、コンサートマスターのバイオリンを受け取って、そのまま演奏を続け、ました。
その翌日でしたか、新聞に、音楽評論家の批評が出ていました。 「バイオリンの糸が切れて、取り替えて弾き続けたのだが、こうも音色が違うものかと思った」と書いていました。
それから暫くたって、岩淵龍太郎が、同じコンサートのことを書いていました。 「あれは、バイオリンの中のこんちゅう(魂柱?)が外れるという珍しい事故だった。 咄嗟に江藤君は、コンサートマスターのバイオリンをとって弾きつづけたが、あれはたいへん難しいことだ。 バイオリンというものは、弾きこむのにかなり時間を要するものだ。 それを江藤君は音の響きを変えることなく、そのままに演奏した。 さすがは江藤君だ。 江藤君ならでは出来ない業だと感嘆した」と称賛していました。
岩城宏之が、「ピアノもバイオリンも弾けないのが指揮者になる。 指揮者にもなれないのが批評家になる」と言っていたのを思い出しました。
岩淵龍太郎と江藤俊哉は小学校5年生の時に毎日コンクールで争い、江藤さんが優勝、岩淵さんは2位になったのですが、その時の二人の競演は、後世語り草になったほどすさまじいものであったと聞きました。 その後江藤さんは上野からアメリカ留学へ。 岩淵さんは一高から東大へ。 それでも東大在学中新響(日響)に入りコンサートマスターをつとめたそうですね。 今75歳ぐらいでしょうか。 勲三等旭日中授賞が贈られたそうですが、イギリスだったら、Sir か Lord の爵位をもらっていたことでしょう。 そのぐらい、日本の音楽振興に貢献されたのですから。
あれは私が小学2年ぐらいの頃だったでしょうか。 当時私の家は、鹿児島で小さな店をやっていたのですが、ある日帰宅して、住まいになっていた2階へ上がって行くと、少年がバイオリンを弾き、少女が伴奏をしています。 後で思うと、その晩の公会堂での演奏会に備えて、江藤俊哉兄妹が、チゴイネルワイゼンを練習している所でした。 毎日コンクールで優勝して、鹿児島まで来たところをみると、恐らく全国を公演してまわったのでしょう。
その次に見かけたのは、20年後。 新宿の街頭を、イタリア系の奥さんとお嬢さんの手を引いて歩いているところでした。 江藤さんが、まだ日本人が海外に渡航できない頃アメリカへ留学して、その滞在記を音楽之友に掲載していましたが、華麗な表現の文体が独得で、あの文才なら文筆家としtも大成していたかもしれません。
ハイフェッツかスターンの話。 あれは日本での出来事ですか。 それで思い出したのが、江藤俊哉です。
ある日テレビで見ていたのですが、多分14インチの白黒が普通だった頃でしょう。 江藤俊哉がオーケストラと協演していましたが、彼が演奏中、自分のバイオリンをアゴから外し、コンサートマスターのバイオリンを受け取って、そのまま演奏を続け、ました。
その翌日でしたか、新聞に、音楽評論家の批評が出ていました。 「バイオリンの糸が切れて、取り替えて弾き続けたのだが、こうも音色が違うものかと思った」と書いていました。
それから暫くたって、岩淵龍太郎が、同じコンサートのことを書いていました。 「あれは、バイオリンの中のこんちゅう(魂柱?)が外れるという珍しい事故だった。 咄嗟に江藤君は、コンサートマスターのバイオリンをとって弾きつづけたが、あれはたいへん難しいことだ。 バイオリンというものは、弾きこむのにかなり時間を要するものだ。 それを江藤君は音の響きを変えることなく、そのままに演奏した。 さすがは江藤君だ。 江藤君ならでは出来ない業だと感嘆した」と称賛していました。
岩城宏之が、「ピアノもバイオリンも弾けないのが指揮者になる。 指揮者にもなれないのが批評家になる」と言っていたのを思い出しました。
岩淵龍太郎と江藤俊哉は小学校5年生の時に毎日コンクールで争い、江藤さんが優勝、岩淵さんは2位になったのですが、その時の二人の競演は、後世語り草になったほどすさまじいものであったと聞きました。 その後江藤さんは上野からアメリカ留学へ。 岩淵さんは一高から東大へ。 それでも東大在学中新響(日響)に入りコンサートマスターをつとめたそうですね。 今75歳ぐらいでしょうか。 勲三等旭日中授賞が贈られたそうですが、イギリスだったら、Sir か Lord の爵位をもらっていたことでしょう。 そのぐらい、日本の音楽振興に貢献されたのですから。
あれは私が小学2年ぐらいの頃だったでしょうか。 当時私の家は、鹿児島で小さな店をやっていたのですが、ある日帰宅して、住まいになっていた2階へ上がって行くと、少年がバイオリンを弾き、少女が伴奏をしています。 後で思うと、その晩の公会堂での演奏会に備えて、江藤俊哉兄妹が、チゴイネルワイゼンを練習している所でした。 毎日コンクールで優勝して、鹿児島まで来たところをみると、恐らく全国を公演してまわったのでしょう。
その次に見かけたのは、20年後。 新宿の街頭を、イタリア系の奥さんとお嬢さんの手を引いて歩いているところでした。 江藤さんが、まだ日本人が海外に渡航できない頃アメリカへ留学して、その滞在記を音楽之友に掲載していましたが、華麗な表現の文体が独得で、あの文才なら文筆家としtも大成していたかもしれません。

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