Sunday, February 05, 2006

冬と雨は苦手(06-02-05)[o]

まだ、雨模様の日が続いていますか?

なかなかメールが打てず申し訳なし。

相変わらず何を目的に生きているのかわからぬ日が続き、気がつけば、ボケ老人が何も出来ずぼさっとしているだけです。

風邪で1週間やられ、寝てもいられぬ性分から 家事をすれば、益々風邪はこじれて 未だに治りません。

医者にはとてもつらくて歩いてはいけず、39度の熱に浮かされていました。
恐らく、流感だったのでしょう。

寝ながら考えていて、人生、さま様で 思いがけぬ事が起きると思っていましたが、今日は 昨年、100年を迎えた日露戦争終結を機に、杉野兵曹長のことを書きましょう。

「杉野兵曹長は生きていた!」

あの日露戦争の中で、英雄となった方は何人かいますが、神田万世橋に銅像まで出来た[広瀬中佐と杉野兵曹長]の話は、歌にまで唄われて かなり有名です。

その杉野兵曹長が 実は生きていたという話が読売新聞のコラムに載ったのは、4~5年くらい前のことです。

小生その事実を確かめたくなり、その記事を書いた農民作家の遠山あきさんというかたに 人を介して手紙を出しました。

丁寧なご返事とともに、ある雑誌の記事のコピーが送られてきました。

平成8年[1996]1月1日付「海交会だより」[静岡県西部海交会]に、日露戦争秘話・杉野はいずこというタイトルで 元ハイラル陸軍特務機関員 横田正二氏の文が載っています。

旅順港口を閉鎖して、中のロシア太平洋艦隊を閉じ込めようという作戦は 三次まで行なわれ 失敗に終わりますが、その第二次に 広瀬中佐と杉野兵曹長は 福井丸で出かけます。

そして、自沈の爆破装置をセットして ボートに移乗するときに 杉野孫七兵曹長の姿が見えなくなります。

広瀬中佐が爆死する寸前まで「杉野はいずこ、杉野は居ずや」と探していた兵曹長は、その直前の爆発で海中に投げ出され 意識不明のところを、ロシア軍に助けられ、捕虜になっていたのです。

戦争が終わり、杉野は朝鮮の釜山まで戻って来て、奥さんに電報を打ち、呼び寄せようとしたのですが、電報を受け取った奥さんは びっくり、もう軍神にまでなっているのに 今更、と、叔父と釜山へ行き 事情を話して 帰国をあきらめさせ、杉野は そのまま満州へ 一人、旅だったのだそうです。

そして、大東亜戦争中、横田特務機関員は 満映の理事長だった甘粕正彦{あの大杉栄を殺した元陸軍将校}から紹介されて、満人の奥さんと暮らしていた杉野兵曹長と逢い、この話を聞かされたわけです。 当時、七十歳台に見えたそうです。

この話が事実かどうか 調べるつもりが 家内に倒れられ、出来ないときに、たまたま歴史家で、軍事史学会顧問の佐藤和夫氏と出会い、この話をしたら 1年以上かけて事実関係を調べ 「日本海海戦随想禄」という本に発表していただきました。

それによると、事実を知る直接の関係者はみんな他界され、確認は出来なかったようですが、林えいだいという作家が この生存説を追って 本を書いており{2002年新評論から出版}、わざわざこんな話を作る必要も無いことから、事実は有ったものと推定されています。

こんなこと一つでも、人間の人生の真実を追うために 沢山の人間が動いていることに驚きました。

大東亜戦争の最初の特攻隊の隊長だった関中尉も 19年10月に空母に突っ込んだあと、20年1月にマニラの近くで関氏と出遭ったという話が、宮本卿三著「隼のつばさ」に載っています。

艦爆の操縦士だった関中尉は、そのまま突っ込めず、ゼロ戦の爆弾を空母に命中させて撃沈し、近くの小島に不時着したと話したそうです。

人生の真実を知ることは難しい、と痛感する話です。

小生の人生も 他人に知られることはほとんど無いでしょうが、有名人の一生も 恐らく真実は誰にも掴めないでしょうね。
それが、人生なのかも知れません。

眼の事、事情わかりました。 鍼で少しでも良くなることを井上氏同様、願っています。

では、風邪を引かぬよう。お元気で

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