戦争と日本人 (2007/01/26)[o]
サイパンから戻って1週間、何故か物凄く疲れています。
いろいろ考えてみましたが、どうも家内がよくなるにつれ注文が多くなったためのようです。
家内が具合が悪かった頃は良くなってもらうために家内の言うことは100%受け入れるようにしていたのですが、どうもそれが慣い性になったのか全部自分の思うままになるように思ったしまったみたいで、細かいことまで注文が出て、参っています。
病気がよくなるとこんな副産物が出てくるとは、思ってもいませんでした。
ところで、昨年の映画のベスト10が出始めましたが、予想どうり「硫黄島の手紙」と「父親たちの星条旗」がキネマ旬報では1,2位を占め、他でも「手紙」が1位になっていることが多いようです。
イーストウッド監督の日米両方からあの戦争を見るという発想と、その描き方の確かさがこの結果を生んだと見ます。
3月26日のアカデミー賞がどうなるか、見ものです。
今、日本では硫黄島ブームみたいで本も新刊だけでなく、以前から出たのを増刷したり、広告も数多く出ていますが、先日、秋草鶴次さんという方が書かれた「十七歳の硫黄島」という本を読みました。NHKの番組に出ていた方です。
17歳の海軍1等水兵で通信兵として硫黄島で戦い、最後は怪我と飢えで意識不明のまま米軍上陸後、3箇月もしてから捕虜になった方が書かれた本です。
その中で、たまたま手紙の件に触れていますが「夜手紙を書くのは、お偉いさんだけ、我々下っ端は疲れて寝るだけ」という記述がありました。
勿論、映画の前に書かれた本ですが、手紙を書けるだけでもよいほうだったのが判ります。
それにしても、あの戦争を客観的に見たり、反省したりすることを、日本という国は何故、しないできてしまったのでしょうか。
どうも、日本人は過去を振り返ってみたり、反省したり、客観的に見たりすることが、不得意な民族のように思えます。
天皇が「あの戦争ー」と言っているように、戦争の呼び方すら、決まっておらず、何時から何時までを指すのかも判りません。
私は、1931年9月18日の満州事変から、1945年9月2日の降伏文書調印までを「あの戦争ー」と思っています。
中には1928年6月の張作りん爆殺事件が始まりだと言う方もおられるようですが、それでもいいと思います。
関東軍が勝手に満州から領土拡大を図り、中国の侵略を企てたのがあの戦争の始まりと見ています。日露戦争で得た満州の権益に酔ってしまったとしか思えません。
確かに欧米ソがアジアの植民地化を進めていましたが、アジアの1国の日本がそれを止めるどころか自分まで領土拡大に走ったことは、返す返すも残念です。
張作りんの時に関東軍を放置した田中義一首相、満州事変のときも同様に若槻礼次郎首相が手がつけらなかった政界の弱さ。
1937年には日中戦争に拡大、そして1939年9月1日、ドイツがポーランドに攻め込み第2次世界大戦が始まると、もう完全に日本は戦争から抜け出せず、資源欲しさに北部仏印、そして南部仏印にまで侵攻してアメリカの怒りをかいます。石油と鉄が無ければ完全に
潰れる日本、そしてそのためにはなんでもする。アメリカは当然よんでいた筈です。
こうしてルーズベルトが戦争を誘発したとの見方もあるようですが、日本が満州のときに国連視察団からから「NO」の指摘を受けた時点で、日本の行き方は世界から否定されていたのです。中国侵略で蒋介石と戦い、その蒋介石が最初のハルノートの原案に絶対反対し、そのため、ハルノートがあの強いものに書き換えられたのですから、日本は正に自業自得だったわけです。東条はそれに乗せられたのです。
1941,12,8からの戦争は、国として「大東亜戦争」と呼び方を決めていますが、天皇はこの呼び方を使っていませんから、「あの戦争-」はここからのものでない事は確かです。因みにアメリカは太平洋戦争と呼んでいます。
戦争中大東亜共栄圏を唱え、また大東亜戦争後、アジアの諸国が独立できたことで戦争を正当化したりする人もいるようですが、これは戦後たまたま独立気運が高まった事で良い結果が出たからそう言えるのであって、戦争中に九段会館で開かれた大東亜会議に各国が反発し、首相級は出てこず、形だけの会議になったことは有名です。
各国は日本がアジアを制圧するために大東亜共栄圏を唱えたことは見抜いていたのです。
こうした長い戦争はほとんど東条内閣と陸軍の強行策で行なわれましたが、海軍も島田繁太郎を初め、大東亜戦争に協力した者も数多かったはずです。
それでなければあのインド、ニュ-ギニアあたりまで進出することは不可能だったと思います。
その結果が、1931年以降、1945年までの軍人230万人、民間80万人という死者です。
今ごろ、戦後60年以上経ってイーストウッド監督がその戦争の中で唯一、米軍の死傷者が日本のそれを上回った硫黄島を取り上げ、それを日米両方から描くという凄いことを考えたのに比べ、日本では戦争の名前も、戦争責任者も全てベールに隠したまま。
民族性の違いでしょうか、それとも監督の人間性の問題でしょうか。
先日読売新聞が「検証、戦争責任」の特集をし、それをまとめた本も出ましたが、その中ではあの戦争を「昭和戦争」と呼ぶことにしています。
ただ、私はその呼び名だと昭和天皇がその責任者みたいに聞えるので、のっていません。
国としてあの戦争をきちんと総括することが必要と私は思いますが、貴兄はいかがですか?
今日は映画のことを書くつもりが、戦争全体の話になってしまいました。
もし載せるのならかなり長いので、2回に分けても構いません。
折角の週末に余計な手間をかけて申し訳なし。 (07/01/26)
いろいろ考えてみましたが、どうも家内がよくなるにつれ注文が多くなったためのようです。
家内が具合が悪かった頃は良くなってもらうために家内の言うことは100%受け入れるようにしていたのですが、どうもそれが慣い性になったのか全部自分の思うままになるように思ったしまったみたいで、細かいことまで注文が出て、参っています。
病気がよくなるとこんな副産物が出てくるとは、思ってもいませんでした。
ところで、昨年の映画のベスト10が出始めましたが、予想どうり「硫黄島の手紙」と「父親たちの星条旗」がキネマ旬報では1,2位を占め、他でも「手紙」が1位になっていることが多いようです。
イーストウッド監督の日米両方からあの戦争を見るという発想と、その描き方の確かさがこの結果を生んだと見ます。
3月26日のアカデミー賞がどうなるか、見ものです。
今、日本では硫黄島ブームみたいで本も新刊だけでなく、以前から出たのを増刷したり、広告も数多く出ていますが、先日、秋草鶴次さんという方が書かれた「十七歳の硫黄島」という本を読みました。NHKの番組に出ていた方です。
17歳の海軍1等水兵で通信兵として硫黄島で戦い、最後は怪我と飢えで意識不明のまま米軍上陸後、3箇月もしてから捕虜になった方が書かれた本です。
その中で、たまたま手紙の件に触れていますが「夜手紙を書くのは、お偉いさんだけ、我々下っ端は疲れて寝るだけ」という記述がありました。
勿論、映画の前に書かれた本ですが、手紙を書けるだけでもよいほうだったのが判ります。
それにしても、あの戦争を客観的に見たり、反省したりすることを、日本という国は何故、しないできてしまったのでしょうか。
どうも、日本人は過去を振り返ってみたり、反省したり、客観的に見たりすることが、不得意な民族のように思えます。
天皇が「あの戦争ー」と言っているように、戦争の呼び方すら、決まっておらず、何時から何時までを指すのかも判りません。
私は、1931年9月18日の満州事変から、1945年9月2日の降伏文書調印までを「あの戦争ー」と思っています。
中には1928年6月の張作りん爆殺事件が始まりだと言う方もおられるようですが、それでもいいと思います。
関東軍が勝手に満州から領土拡大を図り、中国の侵略を企てたのがあの戦争の始まりと見ています。日露戦争で得た満州の権益に酔ってしまったとしか思えません。
確かに欧米ソがアジアの植民地化を進めていましたが、アジアの1国の日本がそれを止めるどころか自分まで領土拡大に走ったことは、返す返すも残念です。
張作りんの時に関東軍を放置した田中義一首相、満州事変のときも同様に若槻礼次郎首相が手がつけらなかった政界の弱さ。
1937年には日中戦争に拡大、そして1939年9月1日、ドイツがポーランドに攻め込み第2次世界大戦が始まると、もう完全に日本は戦争から抜け出せず、資源欲しさに北部仏印、そして南部仏印にまで侵攻してアメリカの怒りをかいます。石油と鉄が無ければ完全に
潰れる日本、そしてそのためにはなんでもする。アメリカは当然よんでいた筈です。
こうしてルーズベルトが戦争を誘発したとの見方もあるようですが、日本が満州のときに国連視察団からから「NO」の指摘を受けた時点で、日本の行き方は世界から否定されていたのです。中国侵略で蒋介石と戦い、その蒋介石が最初のハルノートの原案に絶対反対し、そのため、ハルノートがあの強いものに書き換えられたのですから、日本は正に自業自得だったわけです。東条はそれに乗せられたのです。
1941,12,8からの戦争は、国として「大東亜戦争」と呼び方を決めていますが、天皇はこの呼び方を使っていませんから、「あの戦争-」はここからのものでない事は確かです。因みにアメリカは太平洋戦争と呼んでいます。
戦争中大東亜共栄圏を唱え、また大東亜戦争後、アジアの諸国が独立できたことで戦争を正当化したりする人もいるようですが、これは戦後たまたま独立気運が高まった事で良い結果が出たからそう言えるのであって、戦争中に九段会館で開かれた大東亜会議に各国が反発し、首相級は出てこず、形だけの会議になったことは有名です。
各国は日本がアジアを制圧するために大東亜共栄圏を唱えたことは見抜いていたのです。
こうした長い戦争はほとんど東条内閣と陸軍の強行策で行なわれましたが、海軍も島田繁太郎を初め、大東亜戦争に協力した者も数多かったはずです。
それでなければあのインド、ニュ-ギニアあたりまで進出することは不可能だったと思います。
その結果が、1931年以降、1945年までの軍人230万人、民間80万人という死者です。
今ごろ、戦後60年以上経ってイーストウッド監督がその戦争の中で唯一、米軍の死傷者が日本のそれを上回った硫黄島を取り上げ、それを日米両方から描くという凄いことを考えたのに比べ、日本では戦争の名前も、戦争責任者も全てベールに隠したまま。
民族性の違いでしょうか、それとも監督の人間性の問題でしょうか。
先日読売新聞が「検証、戦争責任」の特集をし、それをまとめた本も出ましたが、その中ではあの戦争を「昭和戦争」と呼ぶことにしています。
ただ、私はその呼び名だと昭和天皇がその責任者みたいに聞えるので、のっていません。
国としてあの戦争をきちんと総括することが必要と私は思いますが、貴兄はいかがですか?
今日は映画のことを書くつもりが、戦争全体の話になってしまいました。
もし載せるのならかなり長いので、2回に分けても構いません。
折角の週末に余計な手間をかけて申し訳なし。 (07/01/26)

0 Comments:
Post a Comment
<< Home