旧戦地訪問その1(05-6-22受)
約束のメールを送ります。遅くなり申し訳なし、しかもその1だけです。
私が、戦地を訪問することを目的に旅を実行したのは、このパラオが初めてでした。
太平洋の西カロリン群島パラオ諸島、戦前、委任統治領で日の丸が掲げられていたところです。そして、南洋庁の本庁があったところです。連合艦隊の基地でもありました。
場所的にはサイパン・グアムとフィリッピンの間と思ってください。
パラオに行きたいと思ったのには、三つの理由がありました。
一つは、南洋庁の本庁所在地だったこと。
二つ目は、海軍乙事件の始まりの地だったこと、
三つ目はこの諸島のアンガウル、ぺリリューの二つの島が玉砕したことです。
海軍乙事件は、吉村昭氏の本に詳しく書かれていますが、山本五十六の後、連合艦隊司令長官になった古賀峰一が司令部を移すべくパラオからフィリピンのダバオに向かって、1944年3月31日の夜中、97式飛行艇に乗って飛び立ち悪天候のためそのまま行方不明になった事件です。
二機目の飛行艇は参謀長が乗っていましたが、これはダバオまで行けずに、途中で不時着、原住民に捕らえられ、しかも持っていた暗号帳、連合艦隊のその後の戦略の全てを書いた文書を盗まれ、コピーされ、その後の海軍の全作戦は、その内容、作戦に関与する艦船の名前から、航空機の数まで、全部知られている状態で戦い、全滅するのです。
この文書をコピーされたことすら、海軍は疑っても信ぜず、そのままにしていたのです。
もっともアメリカはゲリラを使って書類を盗んでコピーし、また丁寧に海中の飛行艇に戻していたのです。
そして皮肉にも、三機目の飛行艇だけが無事にダバオに到着。
なお海軍甲事件とは、山本五十六の搭乗した一式陸攻が暗号を解読されたために、ブインの近くで撃墜され、山本連合艦隊司令長官が亡くなった事件のことをいいます。
三つ目の理由の二つの島の玉砕戦は、たまたまこのアンガウルで玉砕戦に参加し、最後に単身アメリカ軍の司令部を攻撃途中に撃たれ、人事不省のまま捕虜となった「船坂 弘」<舟へんに公を書くのが、正しいのですがこのPCではその船の字は出ません>という方の書かれた「滅尽争のなかの戦士たち{英霊の絶叫と同じ本}」「血風ぺリリュー島」を読み、玉砕戦の凄まじさを少しだけでも理解したからです。
[なお、船坂氏は三島由紀夫氏に本の序文を書いていただいたお礼に名刀関の孫六を贈り、その刀が四谷自衛隊本部での三島氏自決事件に使われたことでも名を知られています]
本当のことは、玉砕した方しか分らないでしょうが、船坂氏はアンガウルで捕虜となった後、ぺリリューの収容所に収容されたため、二島についてかなり正確な記録を残されたと本を読んで感じました。
そして何よりも小さなぺリリュー島で2ヵ月半近くも戦ったことに驚いたのです。
サイパンでも3週間、他のテニヤン、ガアム、など孤島の戦いはせいぜい2週間程度しかもたなかったのが現実です。
沖縄でも2ヵ月半です。
食料も水もそして弾薬もない中で、何故2ヶ月以上も戦えたのか、その戦闘は一体どんな島で行われたのか。
それが知りたかったのです。
オプショナルツアーでは、ぺリリュー島しかありません。
アンガウルはあきらめることにしました。
3名いないとツアーは催行しないのですが、たまたま、ぺリリューからニューギニアに船で運ばれる途中に父親が戦死されたというMさんという方が奥様同伴で来られて、やっと出発できました。
パラオの首都のあるコロール島から高速ボートで約1時間、50キロほど離れたぺリリュー島にいく途中で、ボートがスピードゆるめました。
海中に曲がったプロペラが見えます。ガイドの説明ではゼロ戦の不時着したものとのこと、60年を経て機体はその原形をかなり留めていました。戦地が近くなった感じがしてきました。
浅瀬とさんご礁が多いことがこのゼロ戦を残していた要因と思われます。
実はぺリリュー島には中川束{ツカネ}さんという旧海軍の軍人の方が、「大東亜戦争で犠牲になった人々の慰霊のために半生を捧げたい」と1992年に移住しておられると聞いていました。
ぺリリュー島に着くなり、私は出迎えの現地の方に「中川さんにお逢いしたい」と願い出たのですが、答えは「中川さんは4月に<2004年>亡くなりました」、という無情の返事でした。
7月に私は行ったので僅か3ヶ月前に亡くなっておられたのです。
同行したMさんが恐る恐る「花束が欲しいのですが」と切り出したころ、なんと原住民の方がさっとジャングルの近くに行き、花を摘んでくれて束ねてくれたのです。
ここは年間2~3千人くらいは遺族の方が訪れるとのことで、原住民の方もお参りには花が欠かせないものと、知っているという感じでした。
慰霊碑は同一地区にいくつもあり、前述の船坂氏の建てたものを含めて数ヶ所あります。部隊のもの、遺族会のもの、さまざまで個人のお墓も数多くありました。
持っていった花や食べ物、お水などを少しずつお供えし、小さなイクロバスで島内の観光?に出かけました。
アメリカ軍の爆撃、砲撃そして上陸後の火炎放射器などで全島丸裸になり、地肌が露出している写真が、本には載っていますが、現在は全島緑に覆われ、ジャングルが山を覆います。
戦争で原住民は畑を焼かれ、椰子の木を失い、家を爆破され本当に無一文になったのに、我々に恨み言の一つも言わず、バスを運転してくれました。
日本軍の司令部らしき鉄筋コンクリの建物は、骨格は残っており、風呂やトイレの跡も識別できます。
島の中は米軍が作ったのでしょう、素晴らしいコンクリの道路が張り巡らさせており、島内全部を見ることが出来ます。
二本あったはずの滑走路は一本になり、一本は道路になっていました。民間機がパラオから今も飛んでいます。
米軍の水陸両用車、日本軍の小さな戦車、洞窟内の大砲、
戦いの遺物はあちこちに見られます。
日米の兵士の死体の血で染まったことから、オレンジビーチと呼ばれた浜辺は、静かな波が打ち寄せていました。
ここで暫く立っていると、あの60年前の戦いは一体何だったのかという思いに包まれ、自然に涙ぐんでくる自分と、ここへ旅として来られた現在の幸福感が複雑に入り混じりました。
このビーチで、他のバスがきてこれには白人の方が3人乗っていました。
この方々とは、そのあとも何回か一緒になる機会がありましたがとうとう、一度も我々のほうに顔を向けることはありませんでした。
恐らく、上陸した海兵隊の遺族の方と思われましたが、1944年9月15日から11月24日の玉砕まで約1万の日本軍が戦い、全滅したのに、米軍も約1万2千の死傷者を出し、ニミッツ将軍をして「こんな島を本当に占領する必要があったのか」と嘆かせたほど米軍の損害は多かったのです。
その遺族が日本人の顔も見たくない、という気持ちは凄く良く分り、Mさんもなるべく顔を向けないようにしている感じでした。
何故日本軍は70日以上も戦えたのか、その答えは500以上といわれる洞窟陣地にありました。
長さ7キロ弱、幅3キロ弱の小さな島に500以上の洞窟を掘り、地下でつなげたため、爆弾も砲弾も届かず、少ない損害で戦えたのです。
米軍は火炎放射器、手榴弾で攻撃した後、ブルドーザーで一つ一つ洞窟を埋めていったそうです。
したがって、表から洞窟を見られることはまずありません。
山肌の2~3メートル高いところに黒くなっているところがあれば、そこが洞窟の入り口なのです。黒いところは火炎放射器の炎があたったところです。
焼かれ、生き埋めになって、日本軍は全滅したのです。
こうして、何ヶ所か掘り起こされた洞窟を見ることが出来、その中に、守備隊長中川大佐の自決あともあります。
緑に覆われた中で、その戦跡は我々に現在の日本の平和と繁栄はここで死んだ兵士のお陰だと、無言で訴えてくるのです。
米軍の慰霊碑もあり、戦争の悲劇がどんなに年数を経ても続きなくなることがないことを教えてくれます。
波止場への帰り道に、ここに洞窟があったという説明があり、終戦を知らずこもっていた34名の日本兵が1947年4月に降伏するまでいた洞窟が直ぐ道傍にあったのを知りました。
こうして約5時間、本当にぺリリュー島の一部しか見れませんでしたが、ここで1万2千人もの方が亡くなり、その遺骨が殆ど収集されていない現状も良く分り、私にとっては予想以上の思いを深くした1日でした。
帰りにこのぺリリューから戦闘中に伝令が出され、沖縄出身者を主体に17名がコロール島まで約60キロを4日間かけて泳いだことを本で読んだことを思い出しました。
その大半は、司令部のあるコロール島にたどり着き、戦況と孤島の守備体制についての中川守備隊長の意見書を届けたのです。
この海域は流れが強く、10年程前に日本のダイバーが何人も潮に流されて死んだことで有名になったことがありましたが、当時の兵隊は精神的にも、肉体的にも強かったとの感じです。
大小220の島からなるパラオ諸島はその自然の美しさでも抜群です。その島々の間を縫うようにして戻りましたが、同行したMさんはハワイより余程きれいで素晴らしいと感想を述べ、「親父もこの景色を見てからニューギニアに行けてよかった」と言っておられました。
そのくらい、この海はきれいで戦争などどこでしたの、という感じなのです。
『死してのち 祖国の栄えを 極楽で見ん』
これは江田島の元海軍兵学校跡にある記念館で見た ある海兵出身者の遺書です。
ぺリリュー・アンガウルで亡くなった約1万2千の日本軍兵士、そしてほぼ同数の米軍兵士、この方々の命がこのきれいな海と現在の平和を残してくれたことを痛感した一日でした。
この次に蛇足ですが、パラオと海軍乙事件のことを、少し書きましょう。
阿部 基治
私が、戦地を訪問することを目的に旅を実行したのは、このパラオが初めてでした。
太平洋の西カロリン群島パラオ諸島、戦前、委任統治領で日の丸が掲げられていたところです。そして、南洋庁の本庁があったところです。連合艦隊の基地でもありました。
場所的にはサイパン・グアムとフィリッピンの間と思ってください。
パラオに行きたいと思ったのには、三つの理由がありました。
一つは、南洋庁の本庁所在地だったこと。
二つ目は、海軍乙事件の始まりの地だったこと、
三つ目はこの諸島のアンガウル、ぺリリューの二つの島が玉砕したことです。
海軍乙事件は、吉村昭氏の本に詳しく書かれていますが、山本五十六の後、連合艦隊司令長官になった古賀峰一が司令部を移すべくパラオからフィリピンのダバオに向かって、1944年3月31日の夜中、97式飛行艇に乗って飛び立ち悪天候のためそのまま行方不明になった事件です。
二機目の飛行艇は参謀長が乗っていましたが、これはダバオまで行けずに、途中で不時着、原住民に捕らえられ、しかも持っていた暗号帳、連合艦隊のその後の戦略の全てを書いた文書を盗まれ、コピーされ、その後の海軍の全作戦は、その内容、作戦に関与する艦船の名前から、航空機の数まで、全部知られている状態で戦い、全滅するのです。
この文書をコピーされたことすら、海軍は疑っても信ぜず、そのままにしていたのです。
もっともアメリカはゲリラを使って書類を盗んでコピーし、また丁寧に海中の飛行艇に戻していたのです。
そして皮肉にも、三機目の飛行艇だけが無事にダバオに到着。
なお海軍甲事件とは、山本五十六の搭乗した一式陸攻が暗号を解読されたために、ブインの近くで撃墜され、山本連合艦隊司令長官が亡くなった事件のことをいいます。
三つ目の理由の二つの島の玉砕戦は、たまたまこのアンガウルで玉砕戦に参加し、最後に単身アメリカ軍の司令部を攻撃途中に撃たれ、人事不省のまま捕虜となった「船坂 弘」<舟へんに公を書くのが、正しいのですがこのPCではその船の字は出ません>という方の書かれた「滅尽争のなかの戦士たち{英霊の絶叫と同じ本}」「血風ぺリリュー島」を読み、玉砕戦の凄まじさを少しだけでも理解したからです。
[なお、船坂氏は三島由紀夫氏に本の序文を書いていただいたお礼に名刀関の孫六を贈り、その刀が四谷自衛隊本部での三島氏自決事件に使われたことでも名を知られています]
本当のことは、玉砕した方しか分らないでしょうが、船坂氏はアンガウルで捕虜となった後、ぺリリューの収容所に収容されたため、二島についてかなり正確な記録を残されたと本を読んで感じました。
そして何よりも小さなぺリリュー島で2ヵ月半近くも戦ったことに驚いたのです。
サイパンでも3週間、他のテニヤン、ガアム、など孤島の戦いはせいぜい2週間程度しかもたなかったのが現実です。
沖縄でも2ヵ月半です。
食料も水もそして弾薬もない中で、何故2ヶ月以上も戦えたのか、その戦闘は一体どんな島で行われたのか。
それが知りたかったのです。
オプショナルツアーでは、ぺリリュー島しかありません。
アンガウルはあきらめることにしました。
3名いないとツアーは催行しないのですが、たまたま、ぺリリューからニューギニアに船で運ばれる途中に父親が戦死されたというMさんという方が奥様同伴で来られて、やっと出発できました。
パラオの首都のあるコロール島から高速ボートで約1時間、50キロほど離れたぺリリュー島にいく途中で、ボートがスピードゆるめました。
海中に曲がったプロペラが見えます。ガイドの説明ではゼロ戦の不時着したものとのこと、60年を経て機体はその原形をかなり留めていました。戦地が近くなった感じがしてきました。
浅瀬とさんご礁が多いことがこのゼロ戦を残していた要因と思われます。
実はぺリリュー島には中川束{ツカネ}さんという旧海軍の軍人の方が、「大東亜戦争で犠牲になった人々の慰霊のために半生を捧げたい」と1992年に移住しておられると聞いていました。
ぺリリュー島に着くなり、私は出迎えの現地の方に「中川さんにお逢いしたい」と願い出たのですが、答えは「中川さんは4月に<2004年>亡くなりました」、という無情の返事でした。
7月に私は行ったので僅か3ヶ月前に亡くなっておられたのです。
同行したMさんが恐る恐る「花束が欲しいのですが」と切り出したころ、なんと原住民の方がさっとジャングルの近くに行き、花を摘んでくれて束ねてくれたのです。
ここは年間2~3千人くらいは遺族の方が訪れるとのことで、原住民の方もお参りには花が欠かせないものと、知っているという感じでした。
慰霊碑は同一地区にいくつもあり、前述の船坂氏の建てたものを含めて数ヶ所あります。部隊のもの、遺族会のもの、さまざまで個人のお墓も数多くありました。
持っていった花や食べ物、お水などを少しずつお供えし、小さなイクロバスで島内の観光?に出かけました。
アメリカ軍の爆撃、砲撃そして上陸後の火炎放射器などで全島丸裸になり、地肌が露出している写真が、本には載っていますが、現在は全島緑に覆われ、ジャングルが山を覆います。
戦争で原住民は畑を焼かれ、椰子の木を失い、家を爆破され本当に無一文になったのに、我々に恨み言の一つも言わず、バスを運転してくれました。
日本軍の司令部らしき鉄筋コンクリの建物は、骨格は残っており、風呂やトイレの跡も識別できます。
島の中は米軍が作ったのでしょう、素晴らしいコンクリの道路が張り巡らさせており、島内全部を見ることが出来ます。
二本あったはずの滑走路は一本になり、一本は道路になっていました。民間機がパラオから今も飛んでいます。
米軍の水陸両用車、日本軍の小さな戦車、洞窟内の大砲、
戦いの遺物はあちこちに見られます。
日米の兵士の死体の血で染まったことから、オレンジビーチと呼ばれた浜辺は、静かな波が打ち寄せていました。
ここで暫く立っていると、あの60年前の戦いは一体何だったのかという思いに包まれ、自然に涙ぐんでくる自分と、ここへ旅として来られた現在の幸福感が複雑に入り混じりました。
このビーチで、他のバスがきてこれには白人の方が3人乗っていました。
この方々とは、そのあとも何回か一緒になる機会がありましたがとうとう、一度も我々のほうに顔を向けることはありませんでした。
恐らく、上陸した海兵隊の遺族の方と思われましたが、1944年9月15日から11月24日の玉砕まで約1万の日本軍が戦い、全滅したのに、米軍も約1万2千の死傷者を出し、ニミッツ将軍をして「こんな島を本当に占領する必要があったのか」と嘆かせたほど米軍の損害は多かったのです。
その遺族が日本人の顔も見たくない、という気持ちは凄く良く分り、Mさんもなるべく顔を向けないようにしている感じでした。
何故日本軍は70日以上も戦えたのか、その答えは500以上といわれる洞窟陣地にありました。
長さ7キロ弱、幅3キロ弱の小さな島に500以上の洞窟を掘り、地下でつなげたため、爆弾も砲弾も届かず、少ない損害で戦えたのです。
米軍は火炎放射器、手榴弾で攻撃した後、ブルドーザーで一つ一つ洞窟を埋めていったそうです。
したがって、表から洞窟を見られることはまずありません。
山肌の2~3メートル高いところに黒くなっているところがあれば、そこが洞窟の入り口なのです。黒いところは火炎放射器の炎があたったところです。
焼かれ、生き埋めになって、日本軍は全滅したのです。
こうして、何ヶ所か掘り起こされた洞窟を見ることが出来、その中に、守備隊長中川大佐の自決あともあります。
緑に覆われた中で、その戦跡は我々に現在の日本の平和と繁栄はここで死んだ兵士のお陰だと、無言で訴えてくるのです。
米軍の慰霊碑もあり、戦争の悲劇がどんなに年数を経ても続きなくなることがないことを教えてくれます。
波止場への帰り道に、ここに洞窟があったという説明があり、終戦を知らずこもっていた34名の日本兵が1947年4月に降伏するまでいた洞窟が直ぐ道傍にあったのを知りました。
こうして約5時間、本当にぺリリュー島の一部しか見れませんでしたが、ここで1万2千人もの方が亡くなり、その遺骨が殆ど収集されていない現状も良く分り、私にとっては予想以上の思いを深くした1日でした。
帰りにこのぺリリューから戦闘中に伝令が出され、沖縄出身者を主体に17名がコロール島まで約60キロを4日間かけて泳いだことを本で読んだことを思い出しました。
その大半は、司令部のあるコロール島にたどり着き、戦況と孤島の守備体制についての中川守備隊長の意見書を届けたのです。
この海域は流れが強く、10年程前に日本のダイバーが何人も潮に流されて死んだことで有名になったことがありましたが、当時の兵隊は精神的にも、肉体的にも強かったとの感じです。
大小220の島からなるパラオ諸島はその自然の美しさでも抜群です。その島々の間を縫うようにして戻りましたが、同行したMさんはハワイより余程きれいで素晴らしいと感想を述べ、「親父もこの景色を見てからニューギニアに行けてよかった」と言っておられました。
そのくらい、この海はきれいで戦争などどこでしたの、という感じなのです。
『死してのち 祖国の栄えを 極楽で見ん』
これは江田島の元海軍兵学校跡にある記念館で見た ある海兵出身者の遺書です。
ぺリリュー・アンガウルで亡くなった約1万2千の日本軍兵士、そしてほぼ同数の米軍兵士、この方々の命がこのきれいな海と現在の平和を残してくれたことを痛感した一日でした。
この次に蛇足ですが、パラオと海軍乙事件のことを、少し書きましょう。
阿部 基治

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