長話になってすみません(05-5-26)
そうですか。 バッハをきくと寒気がしたことがありましたか。 なんとなく嬉しくなります。 同じ思いをする仲間がいたかと思って。
私も、一曲だけ、バッハを練習したことがあります。 インベンションの一番です。 それまで、モーツアルトのソナタでも、左手は、右手のメロディに追随する伴奏的動きで、子供心に、ピアノとはこんなものだと思っていました。 ところが、バッハの楽譜を追ってみると、左手も独立した旋律を歌い上げる。 脳が別々に分かれる必要があると思いました。
私は数えの6才から10才まで、ピアノを習いました。 その頃は支那事変の非常時。 軍国主義の鹿児島で、他にピアノを弾く男の子はいませんでした。 小学4年生の時、ピアノの先生が召集さた際は、解放されたような気がしました。
私の先生は、武田恵喜秀という、奄美の沖永良部島の出身。 笈を負って鹿児島師範に進み、17才の時に初めて鍵盤に触ったという人です。 井口基成も17才から本格的にピアノを始めたと聞きましたが、秋子女史のピアノをいつも聴いていたのでしょうから、東支那海の潮風を聞いて育った武田先生とは、育ちも環境も違います。 昭和35年頃、私が西銀座のサンバードでカレーを食べていると、テレビにフランキー堺が出ていました。 そして故郷の恩師を紹介するというので、みたら鹿児島から中継の武田先生です。 その後武田先生に会ったら、「あの時はフランキーというから、そんな外人は知らんと言うたんだが、見たらなんだ堺君じゃないかとびっくりした」と笑っておられました。
私が戦前習って居た時は、先生の6畳の座敷にあったのはアップライト。 戦後すぐグランドを購入し、押入れの中に一部入りこんでいました。 最後にお邪魔したのは1991年でしたが、コンクリート造りのお宅にはグランドピアノが2台並んでいました。 80を越した先生は、お嫁さんとともに、モーツアルトのピアノコンチェルトを聴かせてくださいました。
武田先生も、音楽的には不毛の鹿児島で、道なき道をパイオニアとして歩んでこられたのですが、独学でひたすらモーツアルトを追及されたのでしょう。 小学校の先生から鹿児島大学の教授になり、退官後は鹿児島交響楽団の音楽監督をしておられました。
実は、このオーケストラの最初の練習が、町の中にあった我が家の店の2階で行われたのです。 やはり昭和30年頃のことです。 父の友人の音楽の好きなビジネスマンが、自分で楽器を揃え、学生にあてがって、自ら棒を振りました。 高島屋で燕尾服を誂え、名刺も「鹿児島管弦楽団団長」と刷ったのですが、曲馬団の団長といった方がふさわしいカラフルな人でした。 山根銀二氏の弟の銀五郎さんが鹿児島大学理学部の教授でしたが、その初演にきびしい批評を書きました。 すると団長さんが、「電気仕掛けの蓄音機でしか音楽を知らない者が何を言うか。 ポーンと自分で音の一つでも出してみろ」と新聞紙上で反論したので、街の話題になりました。
6才でピアノを始めた私は、婦人之友社から出ていた、園田清秀(高広の父君)編の 「子供のためのバイエル」という上下2巻のアルバムを半年で終わり、チェルニーとソナチネに進みました。 絶対音感が身につくのも自然で、他の人が不思議がるのが不思議でなりませんでした。 それでも戦時色は次第に濃厚。 ということは、ピアノなど誰も構っていられない時勢になったので、音楽に格別情熱を感じなかった私には好都合。 すっかり止めてしまいました。 そして戦災で無一文。 父が中国から復員してきた時は、疎開先で間借りの暮らし。 中一の私は漱石全集を耽読していました。
サラリーマンになってから、大和證券ホールに、その頃毎日コンクールで優勝したばかりの「ソウ(宗?)さん」という少年のバイオリンを聴きに行きました。 その時思ったのですが、「中3まで音楽に専念して、それから受験勉強に切り替えても間にあったんだなあ」ということ。 ソウさんのお姉さんも確か上野のピアノ科でトップだったと洩れ承りましたが、ソウ姉弟も今なら高年の世代。 第一線で活躍を続けておられるでしょうか。
私は初見がききません。 楽譜をみて、鍵盤を探さなければなりません。 初見も子供の時に練習しておけばよかったのにと、今でも後悔しています。 田中文相・最高裁長官が、「年老いてからピアノを練習する喜び」について書いていましたが、確かに、流れるように弾くことはできなくても、ガーシュインでも、一つずつ音を叩いて、コードを確かめると、また味わいも一際ですね。 昔東大で哲学を、上野でピアノを教えていた、ケーベル博士が、「もし無人島に流されるなら、楽譜とオーケストラのスコアを持って行く」と言われたそうですが、それを聞いて、楽譜を見ただけで音楽が湧いてくるとはと、驚き、かつ限りなく羨ましく思いました。
話があちこちしますが、私が最後に手掛けたのはショパンの軍隊ポロネーズ。 これは結局仕上がりませんでした。 プレリュードの雨だれなら、今でも弾けるでしょうが。 そういうわけで、ピアノの練習は止めても、男子の中学高校で他に人がおらず、舞台の上で伴奏をやらされました。
20年以上前、家内の実家からヤマハのグランドが送ってきました。 私はすっかり錆付いた指の手馴らしにとハノンの教則本を買ってきましたが、指は動きませんでした。 子供達にも習わせませんでした。
「カナダこのごろ」の「運河の旅」でも書きましたが、モントリオールの我が家にイギリス人一家が暫く滞在していました。 リビングルームのベビーグランドをみて、奥さんが「どなたがお弾きになるの」と訊きます。 私が「ゲストです」と答えると、奥さんはそのままニッコリ。 それが火曜日でした。 土曜日になって、寡黙なご主人がポツリと、「妻はピアノを教えていて」と言います。 (ハハン、子供にバイエルやソナチネをね)と思ったところ、「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックでコンサート・ピアニストとして訓練されて」ということ。 私がイギリスかぶれなのは、こうしたアンダーステートメントのカルチャーに惹かれるのです。
私も、一曲だけ、バッハを練習したことがあります。 インベンションの一番です。 それまで、モーツアルトのソナタでも、左手は、右手のメロディに追随する伴奏的動きで、子供心に、ピアノとはこんなものだと思っていました。 ところが、バッハの楽譜を追ってみると、左手も独立した旋律を歌い上げる。 脳が別々に分かれる必要があると思いました。
私は数えの6才から10才まで、ピアノを習いました。 その頃は支那事変の非常時。 軍国主義の鹿児島で、他にピアノを弾く男の子はいませんでした。 小学4年生の時、ピアノの先生が召集さた際は、解放されたような気がしました。
私の先生は、武田恵喜秀という、奄美の沖永良部島の出身。 笈を負って鹿児島師範に進み、17才の時に初めて鍵盤に触ったという人です。 井口基成も17才から本格的にピアノを始めたと聞きましたが、秋子女史のピアノをいつも聴いていたのでしょうから、東支那海の潮風を聞いて育った武田先生とは、育ちも環境も違います。 昭和35年頃、私が西銀座のサンバードでカレーを食べていると、テレビにフランキー堺が出ていました。 そして故郷の恩師を紹介するというので、みたら鹿児島から中継の武田先生です。 その後武田先生に会ったら、「あの時はフランキーというから、そんな外人は知らんと言うたんだが、見たらなんだ堺君じゃないかとびっくりした」と笑っておられました。
私が戦前習って居た時は、先生の6畳の座敷にあったのはアップライト。 戦後すぐグランドを購入し、押入れの中に一部入りこんでいました。 最後にお邪魔したのは1991年でしたが、コンクリート造りのお宅にはグランドピアノが2台並んでいました。 80を越した先生は、お嫁さんとともに、モーツアルトのピアノコンチェルトを聴かせてくださいました。
武田先生も、音楽的には不毛の鹿児島で、道なき道をパイオニアとして歩んでこられたのですが、独学でひたすらモーツアルトを追及されたのでしょう。 小学校の先生から鹿児島大学の教授になり、退官後は鹿児島交響楽団の音楽監督をしておられました。
実は、このオーケストラの最初の練習が、町の中にあった我が家の店の2階で行われたのです。 やはり昭和30年頃のことです。 父の友人の音楽の好きなビジネスマンが、自分で楽器を揃え、学生にあてがって、自ら棒を振りました。 高島屋で燕尾服を誂え、名刺も「鹿児島管弦楽団団長」と刷ったのですが、曲馬団の団長といった方がふさわしいカラフルな人でした。 山根銀二氏の弟の銀五郎さんが鹿児島大学理学部の教授でしたが、その初演にきびしい批評を書きました。 すると団長さんが、「電気仕掛けの蓄音機でしか音楽を知らない者が何を言うか。 ポーンと自分で音の一つでも出してみろ」と新聞紙上で反論したので、街の話題になりました。
6才でピアノを始めた私は、婦人之友社から出ていた、園田清秀(高広の父君)編の 「子供のためのバイエル」という上下2巻のアルバムを半年で終わり、チェルニーとソナチネに進みました。 絶対音感が身につくのも自然で、他の人が不思議がるのが不思議でなりませんでした。 それでも戦時色は次第に濃厚。 ということは、ピアノなど誰も構っていられない時勢になったので、音楽に格別情熱を感じなかった私には好都合。 すっかり止めてしまいました。 そして戦災で無一文。 父が中国から復員してきた時は、疎開先で間借りの暮らし。 中一の私は漱石全集を耽読していました。
サラリーマンになってから、大和證券ホールに、その頃毎日コンクールで優勝したばかりの「ソウ(宗?)さん」という少年のバイオリンを聴きに行きました。 その時思ったのですが、「中3まで音楽に専念して、それから受験勉強に切り替えても間にあったんだなあ」ということ。 ソウさんのお姉さんも確か上野のピアノ科でトップだったと洩れ承りましたが、ソウ姉弟も今なら高年の世代。 第一線で活躍を続けておられるでしょうか。
私は初見がききません。 楽譜をみて、鍵盤を探さなければなりません。 初見も子供の時に練習しておけばよかったのにと、今でも後悔しています。 田中文相・最高裁長官が、「年老いてからピアノを練習する喜び」について書いていましたが、確かに、流れるように弾くことはできなくても、ガーシュインでも、一つずつ音を叩いて、コードを確かめると、また味わいも一際ですね。 昔東大で哲学を、上野でピアノを教えていた、ケーベル博士が、「もし無人島に流されるなら、楽譜とオーケストラのスコアを持って行く」と言われたそうですが、それを聞いて、楽譜を見ただけで音楽が湧いてくるとはと、驚き、かつ限りなく羨ましく思いました。
話があちこちしますが、私が最後に手掛けたのはショパンの軍隊ポロネーズ。 これは結局仕上がりませんでした。 プレリュードの雨だれなら、今でも弾けるでしょうが。 そういうわけで、ピアノの練習は止めても、男子の中学高校で他に人がおらず、舞台の上で伴奏をやらされました。
20年以上前、家内の実家からヤマハのグランドが送ってきました。 私はすっかり錆付いた指の手馴らしにとハノンの教則本を買ってきましたが、指は動きませんでした。 子供達にも習わせませんでした。
「カナダこのごろ」の「運河の旅」でも書きましたが、モントリオールの我が家にイギリス人一家が暫く滞在していました。 リビングルームのベビーグランドをみて、奥さんが「どなたがお弾きになるの」と訊きます。 私が「ゲストです」と答えると、奥さんはそのままニッコリ。 それが火曜日でした。 土曜日になって、寡黙なご主人がポツリと、「妻はピアノを教えていて」と言います。 (ハハン、子供にバイエルやソナチネをね)と思ったところ、「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックでコンサート・ピアニストとして訓練されて」ということ。 私がイギリスかぶれなのは、こうしたアンダーステートメントのカルチャーに惹かれるのです。

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