旧戦地訪問その2(05-6-25受)
メールが遅くなりごめんなさい いろいろ仕事など入って時間が取れず あせりました6月中に送れてほっとしています
パラオは現在はパラオ共和国という独立国家ですが、敗戦後の一時は、アメリカの統治領だったこともあり、通貨はUSドルです
パラオ国際空港は パラオ本島のバベルダオブ島にありますが、この島旧海軍の通信隊跡がありますが、パラオのメインの島ではなく この隣のコロール島が昔も今もメインになっています
ここに旧海軍や陸軍の司令部があり、隣のアラカベサン島とともに、軍事基地であったわけです。
アラカベサンとは日本橋と呼ばれているコンクリートの橋でつながっています。
1944年[昭和19年]3月30日に米軍の猛烈な爆撃があり、島はほとんど建物がなくなったようで、現在は南洋神社くらいしか往時を偲ばせるものはありません。
この爆撃のひどさが、連合艦隊司令部をフィリッピンへ移そうとという基になったといわれています。
たまたま、戦艦武蔵は前日にコロール湾を出航していて難を免れたのですが、パラオに米軍が上陸するのではないかという見方は、かなり強かったと言われています。
そこで、浮き足立った司令部は夜中にフィリッピンへの移動を考えます。
アラカベサン島には現在のパラオパシフィックリゾートホテル<通称PPR>の脇に、水上飛行機基地があります
このPPRにたまたま小生は泊まり、この基地を見に行ったのですが、1934年にこの水上飛行機の基地を作ったとの英文の碑文が埋め込まれていました。
そして、海に向かっての坂ースベリと呼ばれているものーの位置や吉村氏の小説の中で、飛行艇が北へ向かって飛び立ったとの記述から、この位置からでは、北へ向かうのは無いと判断しました。
そこで、現地の旅行代理店の方などに他に水上飛行機の基地がないか聞いたのですが、海軍乙事件どころか、南洋庁のことも知らない人が多く、がっかり。
日本人はかなり行っているのですが、ダイビィングや釣りが目的で、戦争のことなど関心が無いのです。
それでもやっと、現大統領府の近くでミューンスというところにもう一つ基地があることが分ったのですが、そのときはもう帰国が迫っており、行く時間がなくなってしまい、見ることが出来ませんでした。
ただ、地図から見ると、間違いなく北に向かって飛びたてます
1944年3月31日、サイパンから呼び寄せた飛行艇がこのミューンスの基地に夜中に着水。
このとき、まだ爆撃があると思った海軍はあわてて、飛び立ちたいと三つのミスを犯したといわれています。
一つは、燃料を補給しなかったこと・
サイパンから飛んできたのですから、当然減っているのにフィリッピンまでなら充分もつと、補給しなかったのです。
悪天候のため、迂回せざるを得ず、そのため燃料不足になったことは、2機目の飛行艇が燃料切れで、不時着せざるを得なかったことからも明らかです。
そして二つ目、古賀司令官の乗った飛行艇の通信機に水晶箔を入れるのを忘れたという話があります。
これを入れないと当時の無線機は正常に作動しなかったので、古賀艇からの無電が届かず、また他機からの呼びかけにも応答しなかったのです。
そして、最後は二機目の参謀長の乗った飛行艇のピトー管の覆いを外すのを忘れたことです。
これは、飛行艇の速度を測るもので、翼の先端にあります。
この覆いをはずさなかったため、二機目は現在位置の掌握が充分出来ず、不時着に至るのです。
こうした事実は2,3機目の搭乗員が生き残ったため、分ったことです。
かくして悲劇は起こりました。
島田海軍大臣に疎まれて、予備役にされた堀悌吉中将が「山本と古賀の二人が死んだら、もう日本の海軍はおしまいじゃないか」と嘆いたと言われていますが、この乙事件で海軍の終焉は見えたといえます。
PPRの基地跡で私はここから飛行艇が飛び上がる姿を想像しましたが、それは悲しいものでした。
慌てふためいた海軍の情けない姿だったからです。
最後に、パラオに行ってみたい方のためにアドバイス。
コロール・アラカベサン島はもう戦争の面影は殆ど見られません
日本語がどこでも通用しますから、タクシーで行きたいところにいけます。
物価はやや高め、日本食は寿司でも何でもあります。
ぺリリュー島は120ドル必要。
最低3名いないと行けません一人なら360ドル払えば行けることになります。
現地の係員は戦争のことは余り知りません。
事前によく調べて行った方が良いでしょう。
景色は最高。沖縄から移住した人もいるくらいです。
戦争はこんな素晴らしい土地も日本から奪いましたが、独立国のパラオを極楽から見ている英霊を、信じ、慰めたいものです。
阿部 基治 (2005/06/25受)
パラオは現在はパラオ共和国という独立国家ですが、敗戦後の一時は、アメリカの統治領だったこともあり、通貨はUSドルです
パラオ国際空港は パラオ本島のバベルダオブ島にありますが、この島旧海軍の通信隊跡がありますが、パラオのメインの島ではなく この隣のコロール島が昔も今もメインになっています
ここに旧海軍や陸軍の司令部があり、隣のアラカベサン島とともに、軍事基地であったわけです。
アラカベサンとは日本橋と呼ばれているコンクリートの橋でつながっています。
1944年[昭和19年]3月30日に米軍の猛烈な爆撃があり、島はほとんど建物がなくなったようで、現在は南洋神社くらいしか往時を偲ばせるものはありません。
この爆撃のひどさが、連合艦隊司令部をフィリッピンへ移そうとという基になったといわれています。
たまたま、戦艦武蔵は前日にコロール湾を出航していて難を免れたのですが、パラオに米軍が上陸するのではないかという見方は、かなり強かったと言われています。
そこで、浮き足立った司令部は夜中にフィリッピンへの移動を考えます。
アラカベサン島には現在のパラオパシフィックリゾートホテル<通称PPR>の脇に、水上飛行機基地があります
このPPRにたまたま小生は泊まり、この基地を見に行ったのですが、1934年にこの水上飛行機の基地を作ったとの英文の碑文が埋め込まれていました。
そして、海に向かっての坂ースベリと呼ばれているものーの位置や吉村氏の小説の中で、飛行艇が北へ向かって飛び立ったとの記述から、この位置からでは、北へ向かうのは無いと判断しました。
そこで、現地の旅行代理店の方などに他に水上飛行機の基地がないか聞いたのですが、海軍乙事件どころか、南洋庁のことも知らない人が多く、がっかり。
日本人はかなり行っているのですが、ダイビィングや釣りが目的で、戦争のことなど関心が無いのです。
それでもやっと、現大統領府の近くでミューンスというところにもう一つ基地があることが分ったのですが、そのときはもう帰国が迫っており、行く時間がなくなってしまい、見ることが出来ませんでした。
ただ、地図から見ると、間違いなく北に向かって飛びたてます
1944年3月31日、サイパンから呼び寄せた飛行艇がこのミューンスの基地に夜中に着水。
このとき、まだ爆撃があると思った海軍はあわてて、飛び立ちたいと三つのミスを犯したといわれています。
一つは、燃料を補給しなかったこと・
サイパンから飛んできたのですから、当然減っているのにフィリッピンまでなら充分もつと、補給しなかったのです。
悪天候のため、迂回せざるを得ず、そのため燃料不足になったことは、2機目の飛行艇が燃料切れで、不時着せざるを得なかったことからも明らかです。
そして二つ目、古賀司令官の乗った飛行艇の通信機に水晶箔を入れるのを忘れたという話があります。
これを入れないと当時の無線機は正常に作動しなかったので、古賀艇からの無電が届かず、また他機からの呼びかけにも応答しなかったのです。
そして、最後は二機目の参謀長の乗った飛行艇のピトー管の覆いを外すのを忘れたことです。
これは、飛行艇の速度を測るもので、翼の先端にあります。
この覆いをはずさなかったため、二機目は現在位置の掌握が充分出来ず、不時着に至るのです。
こうした事実は2,3機目の搭乗員が生き残ったため、分ったことです。
かくして悲劇は起こりました。
島田海軍大臣に疎まれて、予備役にされた堀悌吉中将が「山本と古賀の二人が死んだら、もう日本の海軍はおしまいじゃないか」と嘆いたと言われていますが、この乙事件で海軍の終焉は見えたといえます。
PPRの基地跡で私はここから飛行艇が飛び上がる姿を想像しましたが、それは悲しいものでした。
慌てふためいた海軍の情けない姿だったからです。
最後に、パラオに行ってみたい方のためにアドバイス。
コロール・アラカベサン島はもう戦争の面影は殆ど見られません
日本語がどこでも通用しますから、タクシーで行きたいところにいけます。
物価はやや高め、日本食は寿司でも何でもあります。
ぺリリュー島は120ドル必要。
最低3名いないと行けません一人なら360ドル払えば行けることになります。
現地の係員は戦争のことは余り知りません。
事前によく調べて行った方が良いでしょう。
景色は最高。沖縄から移住した人もいるくらいです。
戦争はこんな素晴らしい土地も日本から奪いましたが、独立国のパラオを極楽から見ている英霊を、信じ、慰めたいものです。
阿部 基治 (2005/06/25受)

0 Comments:
Post a Comment
<< Home