Tuesday, December 26, 2006

議論もまた可 (2006/12/25)[o]

硫黄島の話、議論を呼んでよかったと思っています。
少しは、紙面が賑わったですから。

実は、あの反論を送るときにこういう議論が出ることを予測し、貴兄にカットしてもいいですよ、と、書いたのです。少し強めに書きましたから。

根屋さんにもう反論を書くことは考えていません。左翼呼ばわりは困りましたが-。

特に、戦争に行くのに死が必要条件なら行かないと書いたのは、相手を挑発する意味もあったので、尚更書くのをためらったのですが、{内心は戦争なら死を覚悟するのは当然、私でもそのつもりで参戦します。しかし、根屋さんがどういう人か読めないので、わざと書きました}
最近は、小泉の靖国参拝以来、あの戦争を正当化する人が多くなり、困った傾向だと思っています。
ALOHAさんもその一人です。何回か会っていますが、今回の反論どうりの話です。

満州・支那事変は明らかに、陸軍の挑発、大東亜戦争は石油が無くなって大弱りの海軍が陸軍を後押しして始まったと見るのが一般的ですが、それすら満州事変以後、米英の戦争挑発説に日本が乗せられた、というのが最近の説です。

硫黄島は栗林陸軍中将は、アメリカ留学のせいで親米派と見なされていて東条と合わず、行かされました。
市丸海軍中将も前任が駄々をこねて?[前任の和智氏については戦後僧侶として慰霊に半生を捧げており余り悪口は言いたくありませんが]、半分、傷痍軍人なのに行かされました。
貴兄の指摘するように後は、少年兵と召集された中年の兵隊で銃の扱い方も知らないような者までいたといわれています。
そんな人間に死に場所をわざと与えたのが、軍令部・大本営だったと小生は思っています。

あの36日間の玉砕戦を戦わずに硫黄島を放棄することも戦術としてあったはずです。どうせ、勝つことは無理だったのですから。
また、本土決戦も戦える武器も無く、勝てるはずも無かったのです。

昭和24年1月1日に最後の生き残りの日本兵2名が硫黄島で見つかりましたが、彼等は米軍の食料を盗んで生きていました。
そして、その兵隊の一人は昭和26年硫黄島へ日記を取りに行くと出かけ
投身自殺しました。

硫黄島がB29の不時着用、足の短い戦闘機の基地として使われて、本土の空襲、機銃掃射が増えたのはこの前にも書いたとうりですが、もし36日の期間が終戦の前倒しになったら、それも歴史を変えていたかもしれません。

テレビドラマ「戦場の郵便配達」なんとか年内に送るべく頑張ってみます。これも実話ですから、ぜひ、出来は悪くてもご覧下さい。

なお、東条の自殺失敗は当時、国民の冷笑を浴びましたね、小生も何故早めに口の中に拳銃をくわえて撃たなかったのかと思っていました。
口の中にくわえて死ぬのは、戦地では当たり前にされていたことで、東条が知らなかったとは夢にも思いません。ほんとは死ぬ気は無かったのではないでしょうか。
最近、東条の子や孫まで東条は犠牲者みたいなことを言っているのは全くおかしいです。いくら身内でも、善悪はわかって欲しい。

戦争は下の庶民が苦しみ、死ぬだけで、トップの者は皆平気な顔をしているのが、尚更癪にさわります。

今日は私信で好きなことを書きました。枯れ木も山の賑わいになったことで少しはお役にたちましたか?

F組の連中にメールをぜひ送ってください。10人や15人は読者が増えますよ。では、また。
(06/12/25)

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