Monday, December 25, 2006

日本の軍隊 (2006/12/25)[s]

「硫黄島論議に関連して」

硫黄島に何万の日本軍将兵がいたのか知らないのですが,二万人以上いたのでしょうか。 日本は精鋭部隊を送り込んだわけではなく、主体は志願の少年兵と赤紙一枚で狩り出された中年の補充兵だったと聞くと、大本営は初めから硫黄島を人柱にして見殺しにするつもりだったのですね。

それでも生き残って米軍に投降した将兵が千人以上いたと聞いて意外でした。 しかもこうした生存者は、洞窟で、戦友の屍骸を積重ねて防禦壁とし、火焔放射器から身を守ったのでしょう。 まさに地獄絵です。 半死半生の状態で米軍に救出されたのでしょうが、今は元気な姿をテレビに現しているところをみると、人間の身体の不思議な生命力に教えられます。 当時の補充兵はもう生存していないと思いますが、少年兵ならまだ70代で真実を胸に秘めていることでしょう。 

東条英機の「戦陣訓」は私も子供の頃レコードで聴きました。 「生きて虜囚の辱めを受くることなかれ」というかん高い声も覚えています。 そのご本人も、ミッドウェー海戦の辺りで自決していれば、東條神社ぐらい建立されたでしょうに、戦後まで生き残って、いよいよ米軍が逮捕にやってきたのを自宅の二階の窓から見ていて、初めて拳銃を取り出し、左手で左胸に発砲。 それが心臓を外れて、戦争裁判の席に立つことになったのですから、戦陣訓とは何だったのかと思います。 

そして「上官の命令は朕の命令と思え」と天皇の名をかたって星数の多い連中が兵卒に対する残忍な嗜虐行為を加えたことを正当化したのですから、嗚呼無情。 もっともそうした上官自身もかつては同じ残酷な扱いを受けてきて、それを次の階級に繰り返したのでしょうが。

私の父も終戦直前に召集され、北支に派遣されたのですが、二等兵の短剣の鞘は竹製でした。 軍靴はズックだったでしょうか。 復員してきた時、前歯があらかた無くなっていました。 若い上等兵や下士官に殴られたのでしょうが、どうしたのかと訊く勇気は中学生の息子にはありませんでした。 父も「敵弾に当たった方がましだと思った」とだけひと言洩らしました。 そのぐらい下級の日本兵は上官のビンタに、敵からの攻撃以上に、痛めつけられていたのでしょう。 前にも申し上げましたが、映画「硫黄島の砂」で侵攻の直前、ジョン・ウェインの軍曹が兵士を殴っていると、通りかかった上官が 「下士官が兵を殴るとは軍法会議ものだ」とたしなめるシーンがあり、その科白に驚きました。 

日露戦争の際の日本軍の行動は騎士道的であったと海外でも賞賛されたようですが、どうして同じ日本軍が、支那事変、大東亜戦争と、性格を変えていったのでしょう。 

軍歌に「恩賜の煙草をいただいて/明日は死ぬぞときめた夜は/荒野の風もなまぐさく/ぐっと睨んだ星空に/星がまたたく二つ三つ」というのがあります。 メロディは長調ですが、寂寥感が迫ってきます。 歌詞は間違っているかもしれませんが、私には忘れられない歌です。 零細農家の母親に育てられた息子が戦場で最後の煙草を胸いっぱい吸う。そして次に母親の手許に届くのは戦死の公報。 それが日本の多くの母親達のパターンではなかったかと思います。 何が東洋平和のため、大東亜共栄圏の大義のためだったのか。 しかしそういう疑問は許されなかったのです。

あの狂気の時代が過去のものとなった今の日本は幸せです。 しかし世界にはまだまだその狂気が大手を振ってまかり通っています。 カナダもアフガニスタンに出兵して多大の犠牲を出していますが、もはや平和を維持するためではなく、攻撃的性格の強い侵攻軍に変化しています。 アメリカと隣りあわせの国に住みながら、私にはどの道が正しいのか、その答がつかめないのです。    
(06/12/25)

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