Friday, May 13, 2005

古き時代のことども(05-5-13)

「未完成交響楽」の始まりが、絵画だったとは、覚えていませんでした。 「菩提樹」という名前さえ浮かんでこないほど、日本語の記憶も衰えました。 英語では「Unfinished Symphony」とでも言うのでしょうか。 こちらのビデオショップで問い合わせてみたいと思います。
「青い山脈」も見る機会がなく、残念に思っている作品です。 原節子の相手役は池辺良でしたか? 手足のスラリと伸びきった杉葉子さんと、並んで歩いたとは、すばらしい青春の一齣ですね。 その頃の貴兄も、五月晴れのような澄み切った心で、振り返っても爽やかな思いでしょう。
それにしても、新宿高校には、捌けた漢文の先生がいたものですね。 さすがは東京の名門校です。 私は、英数が苦手でしたが、漢文か東洋史の教師か、博物館の職員にでもなれればと思っていました。
原節子も高峰秀子も健在とは!  原節子は、一連の小津作品の後、姿を消してしまいましたが、その引き際と、その名声にこだわらない引退後の処世の在り方は、桜の花の潔さを思わせます。 二人とも、年老いて、なお美しいのでしょうね。
私も「ローマの休日」は日比谷映劇でみました。 そして下宿のおじさんに薦めたところ、結婚以来初めておばさんと一緒に日比谷に出かけました。 ところが映画が始まってみると、違う映画。 おじさんは「これは2本立てなんだよ」と動じなかったのですが、映画が終わって判ったのは、隣の有楽座に入っていたことでした。
私がスペイン広場の辺りをほっつき歩いたのは1962年の夏。 1990年当時ロンドンの映画製作会社でプロデューサーをしていた長女が、日本の広告会社の仕事を請負い、このスペイン広場に日本人の若い男女を配し、寸劇のコマーシャルをつくりました。 その頃既にアイスクリームのゴミで広場が冒涜されていたのかどうか。
それにしても「ローマの休日」は不朽の名作ですね。 山田洋次監督も我々と同じ世代のようですが、あの作品がことのほかお気に入りのようです。 グレゴリーペックが最後に歩み去るシーンの歩数を数えたエッセイも、監督らしい余韻の残る随筆でした。
私がひそかにニンマリする思い出は、中学生の時にお上りさんとして、初めて東京に足を踏み入れた時のことです。 あの時は真っ直ぐ東京に入らず、辻堂の伯母の家に厄介になり、東横線を乗り換えて、多摩川を渡し舟で渡りました。 その時は、伯母が、大映の撮影所に連れていってくれたのですが、原節子主演の映画を撮っていました。 しかし残念ながら原さんの姿をみることはできず、三橋達也がセットに入っていました。 帰りは自由ヶ丘に出ましたから、大井線にでも乗ったのでしょう。
田辺兄は、東宝に入ったと思うのですが、ライムライトの交錯する世界から、よく長崎県に居を移しましたね。 学校を出て間もない頃のクラス会で、殆どのクラスメートがまだ独身だったのですが、「赤ん坊が夜泣くんだ」という話を田辺兄がしていました。 彼は、たしか都会的な美人の同級生と結婚したはず。 その奥さんが早々と育児に格闘しているイメージがどうしても結びつきませんでした。
日吉のカマボコ教室で、新庄兄が、「関西学院も受けたんだが、慶應に受かった後、面接があったので、冷やかしに行ってみたんだ。 すると試験官が『試験はどうだったか』と訊くから、『あんな試験やったら誰でも受かるんと違いますか』と答えたら、発表みたら落ちとったよ」と笑っていました。 そして「金があったら、映画を作ってみたいなあ」と言うので、さらに圧倒されました。 私にとっては、映画とは観るもの。 映画を作ってみようなんて発想の余地はありませんでしたから。 東京や関西には、若くてもスケールの大きなアイディアの持主がいるものだなと思いました。
その新庄兄が、哲学を学んで、高島屋に入り、鹿児島探題として赴任。 三田会の席で、隣にいた塾員に「重松という人がたしか鹿児島だったはずだが」と訊くと、その貴島さんが私の消息を伝えてくれ、そして新庄兄から40年ぶりの便りがモントリオールに届きました。 手書きの筆跡は実に端正。 その文体も美しい字にふさわしい、裃をつけた侍のような風格。 これがあの豪快な気象の持主と同一人物? そして、鹿児島の後、JR九州の執権となったと、貴兄からうかがい、驚いた次第です。 

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