Saturday, September 30, 2006

体調が思わしくないのにお便りいただいてまことに恐縮 (2006/09/30)[s]

一週間も発熱! それは大変。 すみやかなご回復を祈ります。 過労と睡眠不足からでしょうか。 奥様もご主人に寝込まれては大変でしょうから、精神的に緊張されているのかもしれなないと想像しています。 とにかく、奥様の調子がよかったのは何よりでした。

私の方は、ボツボツというところです。 すこし暮らしの調子を落としているので、「イノさんの文箱」も遅れ気味です。 身体よりも頭の働の方が遅くなりがち。 これも自然の流れでしょうか。

秋になったと思ったら、あとクリスマスまで3ヶ月もないのですね。 考えてみたら新聞を読めなくなってから7年になるのです。 白内障の手術をしたのが1999年。 それから眼鏡が不要になったのはよいのですが、先日眼科のセンターに行き、もう少し度の強い眼鏡を処方してもらいました。 但しそれをかけると、棟方志功みたいに、紙面に顔をくっつけて舐めるようにしなければならないそうです。 それでも見出しだけでも読めるようになればと眼鏡が出来てくるのを楽しみにしています。  

今はもっぱらラジオを聴くのみ。 昭和15年ごろ死んだ祖父が、晩年は病床にあって、ラジオだけが楽しみだったと聞いています。 そして今は孫の私が同じ状況です。  その頃のラジオは、幼児だった私には、関谷いそじのおじさんと村岡花子のおばさんの声が木の箱から聞こえてくるので不思議でした。 鹿児島のJOHGはうちから2~3キロ離れた海岸にありましたが、そこの70メートルの鉄塔から流れてくる電波をキャッチするのに、庭にも高いアンテナがを張ってありました。 祖父が亡くなったのは73の時。 私は10月、つまりあと4週間足らずで75になるのですが、まだ寝たっきりになっていないのは、感謝です。

お二人ともどうかくれぐれもお大事に。

    (06/09/30 時差の関係で、日本より一日遅れています)

ご無沙汰 (2006/09/30)[o]

ビデオ到着の連絡いただきながら、何も返事もせず、申し訳なし。

今回は小生発熱し、1週間も熱下がらず、少々往生しました。ただ、家内が調子よかったので助かり、なんとか今日まで持ちこたえましたが、熱はまだ完全には下がっていません。

来週は井上氏とも会う約束もあり、何とかこのあとは静かに寝て、直します。

ビデオは目に良くないかもしれないけど、近くで見てもよいのなら、時間をかけて見てください。

体調良くなったら、またメールします。
今日はお詫びまで。 (06/09/30)

Saturday, September 23, 2006

ビデオ無事到着しました (2006/09/23)[s]

待望のビデオ到着の連絡があり、先ほど郵便局に出向いて受け取ってきました。 税関で開いた形跡がありましたが、二つとも無事でした。 かたじけないことです。 厚く御礼申し上げます。

まず硫黄島玉砕とアウシュヴィツから拝見するつもりですが、貴重なドキュメンタリーですから、姿勢を正して見ることにいたしましょう。

今週眼科医に行ってきたのですが、今までテレビを近くで見ると身体に悪いと思い込んでいました。 ところが医者によると、「1メートルの距離でも30センチでもかまわない」というので、これから安心してすぐそばで見ることにしました。  ただ、今まで知らなかったのですが、私は色盲だとのこと。 子供の頃は検査にいつjもパスしていたのに、年を取って色盲になったようです。 道理で映画やテレビを見ても、殆んどが白黒の色調に見えるのです。 今度は、送っていただいたヨーロッパの名画も、近くで鑑賞できることを喜んでいます。

吉村昭氏の死については、私は事情を知りませんでした。 吉村さんの名前は知っていましたが、その著作に触れたことはありません。 貴兄はまだ山田耕嗣さんにお会いになったことがないと思いますが、ラジオ評論家の山田さんが、浅草の家を引き払って、日暮里のマンションに移ったのが21年前。 そのマンションが、吉村邸の屋敷に建っていたので、ご尊父とも親交があったと聞きました。

吉村さんは、カテーテルを自ら外して数時間後に死去。 私の場合はまったく違いますが、医者にカテーテルを取り外してもらって、4時間後に気を失い、フロアに頭からドーンと倒れたのでした。 道路上でなくて幸運でした。 漢方医は、カテーテルを外しことが腎臓に影響して、塩分が消失したのかもしれないと話していました。

吉村さんの作品は、後世に記録を残すもので、将来の研究家には貴重な文献となるでしょう。 貴兄はそれを全部読まれたのですから、これも頭に刻んだ大切な宝ですね。

どうかお元気で。 (06/09/23)

Tuesday, September 19, 2006

吉村昭氏の死 (2006/09/18)[o]

ポーランドから帰って一番ショックだったのは吉村昭氏が亡くなったことでした。

小生のようにノンフィクションを書くものにとって吉村氏の書かれた歴史小説は、凄いお手本でした。

足で現場を見て回り、徹底的に取材していくー
、これが本を書く基本だと吉村氏の本で教わり、真似してきました。
人の書いたものは参考にしても、自分で直接見て聞いて納得して書くことが必要と、一冊の本を書くのに、2年以上かかったのも、吉村氏の影響です。

小生のメールの中でも何回かお名前を出しています。いわゆる歴史小説は全部読ませていただきました。
「黒船」「ポーツマスの旗」「深海の使者」「戦艦武蔵」「高熱随道」「アメリカ彦蔵」他他みんな読み応えがある素晴らしい作品でした。小生の歴史、戦争に関する知識は吉村氏の本のおかげでかなり増えました。

また、吉村氏は原稿の締切日に一度も遅れたことが無かったそうですが、実は小生、放送作家だったときにやはり、締め切りに遅れたことは一度もありませんでした。
ただ理由が違い、小生は締切日を守る作家ということで、仕事を貰いたかったからです。

放送作家は締切日を守らないのが大半で、そのためプロデューサーやディレクタ-は、サバを読んで締め切りの日や時間を早くして言ってくるのです。
中には、原稿料を三倍払うから締め切りを守ってくれ、とまで言われてそれでも守れなかった人もいました。(昔の生放送の頃です)
小生はそこまでの仕事は来ませんでしたから、
あいつは締め切りには原稿入るよ、という評判を立ててもらえば少しは仕事が来るかと思い、守ったのです。

芥川・直木賞は取れなくても、ほかに賞をたくさん受けられている吉村氏が「プロの鑑」と言われるまでに締め切りを守られたのは、人柄の誠実さの表われだと思います。

亡くなった後、奥様の芥川賞作家津村節子さんの話にまた、大ショックを受けました。

吉村氏は舌がんと膵臓がんで亡くなられたのですが、今年の2月に手術を受ける前に、自分がガンであることを悟られぬよう、親類にすらそのことを言わず、自分の病気を隠し通したそうです。

そして、死期が近づくと「延命措置不要」の遺書を書き、津村夫人に「死ぬよ」と声をかけ、
自らカテーテルを引き抜き、数時間後に亡くなった由。

人生一杯に素晴らしい本を書き、最後は自らの意思で自らの生涯を終える。
こんなことはとても小生のような凡人には出来ないことです。
津村夫人は吉村氏の意思を尊重されたようですが、目の前で夫に「死ぬよ」と言われ、かなりショックを受けられたようで、文春などにもこのことを寄稿されています。

日本人の男の平均寿命は78歳ですが、75歳での平均余命は、まだ、11年もあります。
貴兄も小生もまだ10年以上生きねばなりませんが、遺書は書けても自らカテーテルを引き抜くようなことができるかどうか。

人間の価値を自ら判断し、三途の川を何時渡るかを決められる心境に至るまでには、まだまだ修行が足りないと小生は思っています。
小生、墓は不要、骨は海に散骨、従って、小生が生きてきた記録は身内の脳裏にだけ残す、
とここまでは決めましたが、吉村氏の生き方をみて、もう一度考え直します、どう死ぬべきかをー。

なお、吉村氏は宗教は信じていませんでした。
「誰か一人の考えを信じることなんて、とても出来ない」これが、彼の考えですが、小生もこの考え方には同調します。

今日は暗い話題になったかもしれませんが、
お互い年は年ですから、こういうことも話題でよいかな、と書きました。

仕事の方は、この前書いたようにコンサルの仕事は今年一杯で辞めることにしました。
クライアントにも話しました。日本経団連の方は会費を前払いしているので、来年3月でコンサルの定年(75歳)を待たずに辞表を出すつもりです。
これで、来年からの予定表が空欄になったので、じっくり人生の第4楽章をもう一度考えます。新世界のように、第5楽章を作るべく。

もう少し将来の希望をもってお互い頑張りましょう。

(06/09/18)

Saturday, September 16, 2006

山田監督の映画 (2006;09/16)[s]

映画のお話、有難うございました。 お名前の件も寛大なお気持で助かりました。

山田洋次監督は、私と同じ年齢ですが、頭のつくりによって、こんなにも能力に差があるものかと、素晴しい筋の運びにいつも唸りっぱなしです。

あの人は、中学の時、引揚げてきて、食うや食わずの戦後の大阪で生き抜くための一家総動員で働いたのですね。 「寅さん」がみんなと食卓を囲んで、団欒のうちに食事するなんて、自分では経験されたことも無かったのだそうです。 だからあれが山田監督の夢だったようですね。

一方「タコ社長」はカマチに坐っていて、決して畳の上に上がってこない。 これも山田監督一流の、人間喜劇の構図の布石だったのでしょうね。

戦後の極貧を経験してきた私には、あの全編を流れるマズシさが心を打つのです。

私が、山陰の大学を出てバンクーバーに研修に来ていた若い精神科の女医さんに、「寅さは面白い」と言ったら、「私も面白いとは思うんですけどねえ」と煮え切らないような返事。 「こんな先生に昭和一桁の苦悩が判るはずがない」と諦めました。 そのことをNHKの早大出の若いディレクターに書いてやったら、「僕も『面白いとは思うんですけどねえ』という程度」と正直な反応に世代の違いを感じました。

山田監督は、ウィリアム・ワイラーを高く評価していますが、私にしてみれば、ワイラーより山田監督の方が、心を打つ作品を沢山出していて、私もその恵みに預かっている一人です。 全部みていないのですが、あの中に道徳精神が脈々と流れていて、修身よりも効果的だと思うのです。

重松彬    (o6/09/16)

Friday, September 15, 2006

ドンマイドンマイ、そして映画の話 (2006/09/15)[o]

名前を付け忘れたくらいで、そんなに恐縮しないで下さい。正にドンマイです。

小生も年とともに物忘れはひどく、今でもポーランドの旅に持っていったものをどこにしまったのか判らず、我ながらあきれます。

昨日、旅に持っていった小銭入れが突如出てきたのですが、それも単に棚に置き忘れただけで、家内にあきれられました。まだ、出てこない物が幾つかあります。

それより、イライラ、怒りは相変わらず続き、前回のメールも途中で、書くのを止めてしまい、中途半端になってしまいました。 ご免なさい。

今回送った山田洋次は、寅さんシリーズが有名ですが、送ったビデオ以外にも良い作品はたくさんあります。
また、寅さんは48本と多すぎて、とても全部は無理ですが、もし、見たいものがあればお申し越し下さい。

前回、一番好きな時代劇で「七人の侍」を送りましたが、あの映画の脚本を書いた橋本忍氏が「複眼の映像 私と黒沢明」という本を出しました。

読んで、一驚しました。

黒沢映画が 何故面白く、何故、つまらなくなっていったかが、全て判ったのです。

黒沢も橋本も、脚本が良ければよい映画が出来る、という点で一致しているのですが、そのためには、先ず、 1 テーマ  2 ストーリ  3 人物設定 を 複数の人間の話し合いで、きちんと決めてから、シナリオを書いたとのこと。 これだけで、1月かかることもあった由。

シナリオを複数の人間で書くから、「複眼の映像」のタイトルがついているのです。

「七人の侍」は、黒沢と橋本が これに沿ってシーンを書き、小国英雄は シナリオは書かず、それをチェックして 面白い方を選ぶ役割をする方法で、脚本を完成させたとのこと。

これが、橋本をして「七人の侍」は ベスト映画で これ以上のものは望めないと、言わしめたのです。 「生きる」も同じ方法だったようです。

ところが、その後、黒沢は シナリオの書き方を変え、小国英雄にも書かせ、みんなの書いた中から 良いものを選ぶ方法にしたため、チェック役がいなくなり、脚本がつまらなくなったと言うのです。

それが「生きものの記録」「蜘蛛巣城」あたり、

その後、黒沢のやり方についていけない者も出て、遂に、黒沢には反論できない若手の井手雅人を使って「影武者」「乱」といった 小生が見ても面白くない作品になっていきます。

そして、「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」の 最後の3作品は、黒沢一人の脚本になっていくのです。

橋本氏はもう85歳を超え、シナリオ以外の本を書くときは 遺書しかないと言っていた人ですから、そのつもりで、この黒沢との話を書いたと思います。

彼は黒沢に見出され、黒沢を人一倍尊敬していますが、黒沢の映画作りの本質を ここまではっきり書いた人はいません。

貴兄の眼が良ければ送って読んで欲しいくらいですが、ここでは簡単に内容を紹介しておくに留めます。

そういえば、山田洋次も自分と他の脚本家と共同でシナリオを書いています。

山田作品に 低レベルのものが無いのは、そのせいでしょうか?

それから、前回のメールの追加です。

甲飛は高専卒、乙飛は中卒、丙飛は高小・小卒と学校の卒業レベルで、区分していました。

それから余計なお節介ですが、野口さんが書かれた日本の傑作飛行艇 二式大艇は一機現存していて、東京のお台場にある「船の科学館」の入り口に置かれています。一見に値します。

行くたびに四発の大きな機体に見とれますが、このままだと錆びたり、風化しないか、心配です。 屋根の無いところにあるのです。

またまた、下らぬ話を書きました。

イラツキながら書いているので、自分でも書いていて戸惑いがあります。

貴兄も病気を重ねましたが、小生もいろいろやっています。 ただ、家内の手前健康を装う以外に方法無く、じっと我慢の日々です。

次回は、少しはましなものを書きたいです。

(06/09/15)

お名前を落としてしまいすみません (06/09/15)[s]

「銃乱射」のお便り、有難うございました。 早速「カナダこのごろ」で配信させていただきました。内容は銃乱射というより、予科練の話題でしたが、タイトルはそのままホームページにも使わせていただきたいと思いますので、ご了承願います。  

しかしとんでもないエラーを犯してしまいました。 メルマガの文章の最後に「阿部基治」というクレジットをつけるのを落としてしまいました。 なんとお詫びしていいか、甚だ申し訳ありません。 深く頭を下げてお許しを乞います。

ビデオをお送りくださったとのこと、いつもながらかたじけないことです。 厚く厚く御礼申し上げます。 一口に「航空便で送る」といっても、包装から郵便局への往復、いろいろ大変なことです。 普通の人にはなかなか出来ないことです。 それだけに感謝の心で一杯です。

今日はこれから井上さんから送っていただいた3編のエッセーを配信したいと思います。 井上さん、一体どうやって、あれだけ広くリサーチして、表現をまとめ、手書きでしたためるのか、神業に近いと、毎日驚いています。

私も、後数年戦争が続いていたら、予科練に応募していたことでしょう。 桜島の上から鹿児島湾に急降下する訓練を毎日見ていました。 それから生き延びて60有余年。 恥多き人生でしたが、これからの数年、どうやって足を引き摺りながら宿題を片付けるか、思い悩む此の頃です。 貴兄にアドバイスでもいただければ有難いのですが。 どうかよろしく。(06/09/15)

銃乱射 (2006/09/14)[o]

こちらも秋の風が吹き、大分涼しくなりました。
最高23~24℃というと、先日のヴァンクーバーなみです。

とうとうカナダでも、学校で銃の乱射事件が起きたようですね。
アングロサクソンのような狩猟民族は、やはり銃がお好きなようで、日本のような農耕民族はせいぜいナイフか小刀ですが、もとは、銃を自由に持てるかどうかでしょう。

日本も犯罪が増えていますが、もし、銃の携帯が自由だったらもっと凄いことになっていたと思います。

先日、井上さんが予科練の事を書いておられましたが、既に 小さいですが 資料館があることはご存知でしょうか? 小生、二度行っています

場所は、土浦の旧予科練のあった海軍航空隊跡で、現在は陸上自衛隊の武器学校になっています。(阿見町青宿121,Tel 0298-87-1171)

入り口で、住所氏名を書けば、誰でも入れます。駐車場もあります。

予科練資料館は 小さな木造で、置かれているのは、予科練で使われた教科書、予科練出身者の手紙、遺書などで、江田島に比べると かなり少ないのですが、戦争の悲惨さは 充分伝わってきます。

驚いたのは 海軍パイロットの撃墜王で 150機以上落としたと言われる 西沢広義 の肖像画があったことです。

彼の人柄の偉大さを讃えて、フィリッピンの画家が書いたものです。

西沢が亡くなったのは、フィリッピンで 飛行機を受け取りに 輸送機で移動中のことだったのですが、彼の凄さは フィリッピン人にも影響を与えていたようです。

今回は 恐らく この資料をもっと充実させる目的で、出身者が呼びかけているものと思われます。

なお、井上さんもご存知だと思いますが、予科練のパイロットには 甲飛、乙飛、丙飛があります。

学歴によって、この甲乙丙をつけたのですが、海軍の差別も丙までつけるとはあきれます。

現実には、江田島出身のパイロットより 予科練出身の兵、下士官パイロットの方が、飛行時間も長く、断然、腕が良かったのですが、海軍は、江田島出身者を隊長にして、多くの空戦でやられているのです。

そんな学歴差別のせいか、確かに 現資料館は小さく、江田島より見劣りがします。

それでも、時間のある方は 一度行かれることをお薦めします。

ところで、卒倒騒ぎで聞き漏らしましたが、前立腺の方は如何ですか?

以前のように 映画1本見る間にトイレに行く必要はなくなりましたか?

最後に、昨日ビデオを送りました。

TBSのアウシュヴィッツとNHKの終戦特集「硫黄島 玉砕戦」 それに小生の好きな日本映画監督 山田洋次 の作品から「幸福の黄色いハンカチ」を送りました。

北野 武と山田洋次は、現在の日本映画の最高の監督だと思っていますが、北野監督の一番好きな作品はビデオを取っていないので、もし、取れたら送ります。

眼がつらいでしょうが、折を見て鑑賞してください。

また、メールします。お元気で。 {06/09/14)

Monday, September 11, 2006

相変わらず (2006/09/10)[o]

またまたご無沙汰で申しわけなし。
その後、体調如何ですか?

貴兄のご家族の中の人種差別問題をお聞きし、この問題の根深さを痛感しました。
義理の兄弟といえども身内の一人なのにそれでも、ダメですかね。

一度アウシュヴィッツを見に行くよう、勧められたら如何?

宗教と人種だけで、延々と戦争が続くのですから、人間にはあきれるばかり。
この問題に無関心な日本はいい国です。
「奥様は外国人」という番組があるのですが、イスラエル近辺の国から来ている女性が多いのに驚きます。
ただし、番組の中では宗教はタブーにしているようで、全く話題に出てきません。
これが番組を長続きさせる一番の方法かもしれません。

ブログはお手数をかけましたが、見せていただき感謝しています。
小生はPCは全くダメでブログをどう作るのかなど全く判りません。
最近ブログで本まで作れるそうですから、小生も少し頑張らねば、と思ってはいます。

相変わらず家内の調子は良くなく、この1週間は寝たままです。
旅の疲れと、夏の暑さの疲れからか、小生、毎日おろおろと家事などしていて、本を書くことなどどこかへ飛んでいます。
少し家内の具合がいいときにPCに向かうことにします。

ただ小生も看病疲れかイライラ、怒りっぽくなりそれを抑えるのに一苦労。
怒れば家内の病状は間違いなく悪化します。

そのジレンマでまた、イライラ。

そうこうしている間に、ご無沙汰してしまいました。ビデオもまだ送っていません。

今日は私信ゆえ、掲載は勘弁を。
また、時間を作ります。
お身体大切に。

9/11 (2006/09/10)[s]

9/11を迎えて、カナダもアメリカにならって、マスコミも特集を組んでいます。

先日、「ワールドトレードセンター」という映画をみてきました。 私には巨大なスクリーンも、ピンボケの墨色の画面でしたが、音響はよく、迫真の印象を受けました。 もっとも私には、ニューヨークの警官や消防士の英語は、判り辛かったのですが。 瀕死の状態から助け出された場面に、イエスのイメージが重なっていました。 プロデューサーやディレクターがビリーバーだったのでしょう。 メッセージが伝わってきました。

しかし、昭和20年の日本を経験した昭和一桁には、3千人ぐらいでガタガタするのには、正直なところいささか抵抗がありました。 広島、長崎の惨劇もさることながら、東京大空襲で死んだ10万人のことは、いずれもっと劇的なドラマとして再現し、人間の悪について歴史の審判を待つべきでしょう。

貴兄の目の前で火の柱となった人の悲劇をきくと、アウシュヴィッツとともに、何故神はそういうことを許したのか、判りませんが、「不可解」の一語で行き詰まってしまいます。

Monday, September 04, 2006

身辺些事 (2006/09/04)[s]

ユダヤ人とイスラム教徒の関係は、私にもなかなか理解できません。

ユダヤ人のことを、第一次大戦後、ドイツマルクの下落したヨーロッパに出かけた日本人の間では、ユダヤ人のことを「九一」すなわちジュウと呼んで、仲間うちで優越感を覚えていたそうですね。 あの頃困窮していたドイツ人は、若い俄か成金の日本人をどう受け止めていたのでしょうか。 日本人も人種偏見は強い国民で、アメリカ人のことを批判できません。

今でも、白人のことを「毛唐」と呼んでみせる誇り高き日本人がカナダにも時々いますが、なんだか無理して強がっている内弁慶のような感じがします。 毛唐という言葉には中国人も含まれるそうですね。 中国人に始終間違えられる私など、やはり毛唐のうちに入るのかもしれません。

私の家族では、一人はユダヤ人と結婚し、一人はイラン人と結婚。 もう一人はフィリピン系ですが、これがまだ33歳の若さなのに、人種的には一番偏狭で、ユダヤ人の義兄に会うことを拒否しています。 名前はロドリゲスとラテン系、見たところはは日本人そっくりですが、喧嘩っぱやくて、大学でもブラックリストにのっていたようです。 だからなかなか昇進できませんでした。 しかし先月ようやくテニュアをもらったので、少しは機嫌もよくなり、ゆくゆくはユダヤ人の義兄とも口をきくようになればいいのですが。 もう一人、フランス系のケベック人・・・、といっても英語人ですが、これが一番まともでして、ユダヤ系ともフィリピン系とも非常に仲がよく、ピースメーカーの役割を果たしてくれていることを喜んでいます。

しかし、私の英語では、自分の息子や娘も含めて、みんなとこみいった会話を進めることは難しく、諦めています。 それでも、今のところ誰も病院に入らず、刑務所のご厄介にもなっていないのだから、我々ラッキーだと、家内といつも話しているところです。 

家内はストイックな人間で、旅行もご馳走も興味がなく、安上がりです。 ただ「神を知りたい」といつも信仰の本を読んで祈っています。 私は世的な快楽を好む俗人ですから、本も読まず、ラジオとカセット聴いています。 私の祖父は昭和15年頃、73で亡くなったのですが、晩年は床に就いたまま、ラジオを楽しんでいたそうです。 私は、その祖父の年を越えて、今やはりラジオを楽しんでいるのですから、自分ながら似ているなあと思う次第です。

(06/09/04)

Sunday, September 03, 2006

ブログを有難うございます (2006/09/03)[o]

小生の拙文のため、わざわざブログを作っていただいたとのこと、ご厚情を感謝します。

アウシュヴィッツのことは少しでも多くの人に知ってもらい、そして訪ねて欲しいところです。

あの文章を書くときも個人の感情をなるべく入れないように、客観的に書くよう、帰国後直ぐには書かなかったのです。
そのくらい印象が強烈でした。

今日は私信で少し裏話など書きます。

小生自身、ユダヤ人の芳しからぬ評判も、イスラエルのことも 僅かですが知っています。

しかし、一つの民族でありながら 帰る祖国を持たず、ナチスの暴力の前に 消えていった人がいたことは、事実なのです。

それは 人類の歴史の1ページとして、消すことは出来ません。

だから、小生も見なければならぬと思い続け、家内も絶対に行きたいと言っていたのです。

家内が出かける寸前まで 調子が良くなく、心配したのですが、思いがけず元気で、行く前に「夜と霧」を読んでいたので、小生のほうがびっくりしました。

行って良かった、百聞は一見にしかず、と、家内も言います。

「リオのカーニヴァル」と「アウシュヴィッツ」は、行かねば判りません。 全く性質のことなるものですが、一見に値します。

無教養で信心の一回もしたことが無い年寄りの小生ですら、感じることが沢山あったのですから、感受性の強い若者に 是非、見に行って欲しいと念じています。

現地で会った日本人は 我々のようなツアー以外では、若い男性一人でした。
例の「地球の歩き方」を手に持って、一人旅でした。

勿論ガイドなしだったので、小生が「一緒に聞いていったら」と声をかけたら 喜んでついてきました。

彼は 我々のようなイヤホーンは持っていないので、中谷さんの声を聞きたかったのか だんだん前に出て、何時の間にか中谷さんの隣にずっとついて 話を聞いていました。

中谷さんも ツアーの一員でないことは直ぐわかったようですが、彼に口を寄せるように話してくれていました。

それは、正に 中谷さんが言っている「ここから平和を伝えたい」という姿勢そのものに見えました。

見学終了後、中谷さんに名刺を出して挨拶し、今後聞きたい事が出るかもしれないので、と言って 名刺を貰いました。

彼はシャイな人で ツアーのみんなのお礼の拍手も受けずに そこそこに帰っていきました。

彼は ポーランド語の試験に受かって 97年から このガイドをしているそうです。

帰国後、金嬉老の本を贈ったりして 一応、連絡の取れる形にしてあります。
TBSのビデオも、貴兄の分と2本とって、中谷さんへ送るつもりです。

ALOHAさんが軽井沢のことを言ってきたそうですが、小生、実は 軽井沢は通過したことはありますが、泊まった事はありません。 従って、食べ物も 景色も 良く知らず、彼の指摘で苦笑していたところでした。

単なる避暑地の例なのに、真剣に書いてきて こちらが戸惑ったことでした。

ただ、彼も ユダヤ人には思いがあるのを感じ、そうした感情を持つ人こそ 見に行ってもらいたい と思っています。

9月に入って少し涼しく感じます。 体調回復に 少し休みながら 家事をやっています。

仕事は今年いっぱいの契約切れで止める決心をしました。

では、貴兄も体調に気をつけて!

(06/09/03)

Saturday, September 02, 2006

命の尊厳を覚えさせる尊い旅でしたね (2006/09'02)[s]

長篇を二つも送っていただきながら、返事が遅れて申し訳ありません。

アウシュヴィッツの旅の印象は、作家の筆の運びもともなって、強烈な印象を受けています。 家内も拝見して深くて重い感銘を覚えたと感嘆していました。 私も勿論同感です。

私は、昨日、映画 THE WORLD TRADE CENTER をみてきました。 これも胸にズシリと衝撃を覚えるような深刻な映画でした。 飛行機がツインタワーに激突するところは出てこないのですが、その直後にタワーに駆けつけた消防士と警官隊のストーリーです。 3000人近い犠牲者の中には、消防士と警官も多数いたのですが、瀕死の状態から救出された警官に焦点を当て、リアルに再現してありました。 あの映画をつくったプロデューサーや監督は神を信じる人でしょう。 そう思わせる場面がありました。 

私も5年前の9月11日のことは覚えていますが、4000人とか5000人とか犠牲になったと聞いて、果たしてそのうち何人の人が天国に行けことただろうと、私自身は不信心で世的な俗物でありながら、そんな事を考えました。

バグダッドでも中東でもアフリカでもそんな悲劇は毎日起こっているわけですが、ニューヨークのビジネスマンのことやチェチェンの子供達のことを考えるまでもなく、神戸の震災でいたましい犠牲になった人達が、いずれも今は天国で安らかな時の流れの中の永遠の命を楽しんでいることを願います。

井上さんは奥様を5年前になくされたのですが、それにくらべ、我々はまだワイフとともに生きることを許されているのですから、人生の最終ラウンドを迎えて、どう過ごしたらいいのでしょうか。 アウシュヴィッツは、尊い体験をなさいましたね。 妻は旅行する気力も体力もないと言っていますので、我々が巡礼の旅に出かけることはないと思いますが、貴兄ご夫妻にくらべて、何か大事なものを失っているのかもしれません。

A;LOHAさんから先ほど、「軽井沢云々と言って、何か岡本大兄に悪い事をしたような気がいたします」とメールしてきました。 柔道部にしては意外とそんなことを気にするところがあるんですね。

それから、アウシュビッツの記録、ほかの人にも読んでもらいたいと思い、新しいブログをつくりました。

アドレスは、  abemotoharu.blogspot.com です。 

くれぐれもお大事に。

(06/09/02)

アウシュヴィッツその2 (2006/09/02)[o]

新聞でヴァンクーバーの気温を見ると、最高でも25度を超えず、涼しそうだなと思っていたら、貴兄のメールを拝見し、軽井沢並みの快適さに羨ましくなりました。

こちらはやはり真夏日が多く、今度の団地は南向きということもあり、ほとんど毎日、エアコンを使います。 

高速道路を30分も走れば、例の公共の宿の温泉に行けるのですが、8月の夏休みはあきらめ、昨日から学校も始まったので、また逃げることを考えます。

さて、前回は アウシュヴィッツの 第1収容所の話を書いたので、今日は 第2収容所のことを書きます。

第2収容所はビルケナウと呼ばれ、第1から2キロほど離れたところにあります。
よく映画などで、貨物列車が着き、ユダヤ人が大勢降ろされるところが出てきますが、あれはこのビルケナウの入り口です。
線路も入り口の建物もそのまま残っています。

そこで貨車から降ろされた人々は、ナチスによって「労働可能者と不可能者」に選別されます。 可能者は25%程度だったと言われています。

そして、このあと 二つのグループが再会することはありません。

労働不可能の者は、ほとんどが女性と子供で ガス室へ送られるからです。

広大な敷地に 300からの収容棟が建てられ、レンガ造りのものは女性用、そして木造のものは男性用だったようですが、300のうち、現存するのは数十でしょう。 ナチスも物資が不足し、レンガで収容棟を造ることが出来なくなり、大半が木造のバラックになったのです。

中も、トイレも コンクリの段で 50センチ置きくらいに穴が空いているだけ、 中央にオンドル式に暖房用の煙突があります。

ポーランドは 10月には雪が降るという 寒冷地帯ですから、木造の建物の中は 相当な寒さになったと思われます。 そこで、収容者は 3段ベッドで わらにくるまって寝ていたとのことです。

1945年の戦争が終わったあとの冬、寒さに耐えかねたポーランドの住民が この木造の建物を壊し、燃料に使ってしまったため、バラックの建物は 現存するものは僅かです。

従って、残念ながら 第1のように 全てが残されてはいません。

ガス室も 死体焼却炉も ナチスSS(親衛隊員)が ここから逃げるときに爆破し、瓦礫しか残されていません。

ただ、近くに 焼却された人間の灰が捨てられた池があります。 今でも この池をさらうと 人骨が見つかると言われていますが、静かなこの池の前には、幾つかの碑が建てられていました。

その静けさは なんとも形容の仕様がありません。

死人に口なし、と言いますが、ここアウシュヴィッツでは、残された建物から内部の品物に至るまで 全てが語ってくれます。

まさに世界遺産として残し、語り継ぐべきものです。

広大な収容所の周囲を取り囲む鉄条網、勿論それには電気が通され、さらに かなりの数の監視塔が建っています。

ここへ送り込まれた人々は、その瞬間から 何を思い、行動したのでしょうか。 早ければ 数日を経ずしてガス室送りになり、この死の池に運ばれることを、どれだけの人が知っていたのでしょうか。

8月27日、TBSが「世界遺産」という連続番組を放送し、そこでアウシュヴィッツを取り上げました。

その中で、ここアウシュヴィッツの住民が、この収容所の中で何が行なわれているかを、当時、人々が労働に出てきた収容者の体格、そして特有の煙突からのにおいなどから、だんだん中で、何が行なわれているか、判ってきたという話をしていましたが、それに対向することは 全く不可能だった、といっていましたがそれも良く判ります。

ガイドの中谷さんは「今いる60人のガイドは全員戦争を知らない世代です。 しかし、ここから 平和を発信することは出来ます。 一人でも多くの日本人が ここを訪れることを 望んでいます」と言って 説明を終えられましたが、そのとうりだと思います。

学校の修学旅行を、国内は広島、海外はアウシュヴィッツとすれば、戦争、平和に対する認識は、格段に変るのではないでしょうか。

ここまで、私はアウシュヴィッツを見学した感想を 一言も述べてきませんでした。
また、今 述べたくありません。

あの博物館と収容所を、私は2度くらいは見られるかもしれませんが、4回も、5回も見学する勇気はありません、 ということだけ申し上げておきます。

日本からポーランドに行くには、今は成田から直行便があります。
ただし、旅行会社がチャーターしたもので、ポーランド航空が自前で直行便を出すのは あと2~3年先のようです。

ポーランドの見所は、アウシュヴィッツのほかは、コペルニクス、キューリー夫人、シヨパンの家、そしてあとは中世に建てられた 石造りの街並みなどです。

なお、ポーランドの女性は美人が多く、これは 他の国と 何故か 決定的に違います。
街を歩くと楽しいですよ!

ポーランドは 周囲のドイツ、ソ連、オーストリア、スエーデンなどから侵略され続け、完全に独立したのは 東西の壁が崩れたときからですから、まだ、17年くらいです。

駅も道路も工事中のところが沢山あります。

ポーランド語は 文法がかなり難しいとのことですが、ドイツ語やロシヤ語とは全く別の言語です。

王宮を中心にした 絵画や彫刻などの文化も かなり残されています。

日本への関心はかなり強く、ワルシャワ大学にも日本語科があるそうです。

「戦場のピア二スト」の映画で有名になったシュピルマンもポーランド人ですが、演奏のために来日したこともあります。 長男は ロンドン大学で日本語を学び、今は九州大学の先生で 奥さんも日本人です。

なぜか、ポーランドは 遠くて近い国の感じがします。

ここまでで、このごろ用の感想?文は終わりにします。

貴兄には、TBSのヴィデオを近いうちに送ります。是非、見てください。

家内と私と二人とも 以前からアウシュヴィッツを見に ポーランドへ行きたかったのですが、直行が無く、かなりの時間がかかるため、たまたま直行便が出る広告を発見し、無理して行ってきました。

片道11時間のフライトは 疲れたけど、行って良かった とつくづく思います。

仕事が無くなったら、また、旅の虫がうづきそうですが、もう、飛行機で10時間以上かかるところは、無理でしょう。

75歳くらいまでは 海外に出られても、そのあとは 国内中心になりそうです。

長々と拙い文章を書き連ねました。 ご判読ください。

(06/09/02)

Friday, September 01, 2006

アウシュヴィッツその1(2006/08/31)[o]

少しずつ時間を作って、ポーランドのことを書きます。

アウシュヴィッツへ行くには、ポーランドの首都ワルシャワからは、日帰りはかなり難しいので、スロヴァキアに近いクラクフという ポーランド第2の都市に泊まります。 そこから約50キロ、バスで1時間半くらいで、オシフィエンチムという田舎町に着きます。
このオシフィエンチムをドイツ語読みにすると、アウシュヴィッツなのです。

バスの右手に 鉄条網とレンガの建物が突然見えてきたら、それが第1収容所の建物でした。
こんな田舎に収容所を作ったのは ここがヨーロッパ各地から来る上での交通の便が良かったからです。

かなり広い駐車場も 10時前なの にほぼ満車状態。 英語、ドイツ語、イタリヤ語などが飛び交っていて 世界各国から来ていることが判ります。

博物館、収容所跡は 全部をゆっくり見たら、数時間必要でしょうが、残念ながら 団体ツアーの我々は 3時間弱の時間しかありませんでした。

それでも、ガイドにここで60人いるガイドの中の 唯一の日本人、中谷剛さんがついてくれたので、助かりました。
ガイド無しにここを見るのは 先ず、無理です。

入館料は無料ですが、ガイドを頼むと 日本円で6~7千円かかるようです。

博物館に入って この収容所が 最初は ポーランドの政治犯を収容する目的で作られ、それが ユダヤ人を初め、ポルトガル、ロシヤなどの政治犯、エホバの証人、ジプシー、同性愛者を収容し、そして ユダヤのホロ-コーストに変っていった過程の説明があり 「働けば自由になる」の有名なスローガンをかかげた門をくぐって 第1収容所跡の レンガ作りの建物(全28棟)に入ります。

そこで先ず見せられたものは、おびただしい毛髪でした。 生地を作るため、収容者の毛髪を刈りとったのですが、それが 25メータープールより広い場所に山積みにされています。 ガラスごしに見られる巻き毛、白髪、黒髪、三つ編みの毛ーー僅か60年前の人の毛髪です。 毛髪で作られた生地、絨毯などが置いてあります。
時間は経っていても、間違いなく 毛髪はその原型を留めています。

これを見てから、観光客の人々は ほとんど口を開かなくなりました。

アウシュヴィッツのことは、本やテレビ、映画などで ほとんどの方は どんな処かご存知でしょう。
私も、夜と霧を読み、「夜と霧」「シンドラーのリスト」などの映画も見、行くバスの中でビデオも見せられました。

しかし、現実に目の前にこの毛髪を見たときから、百聞は一見にしかず、とはこのことを痛感させられたのです。ホロ-コーストの犠牲者の存在がこの毛髪に凝縮されて見えたのです。

毛髪だけでなく、めがね、靴、衣類、貴金属、義手・義足に至るまで、山積されているのを見て、ホロ-コーストの実態が、私を圧倒してきました。 それぞれが生半可な量ではないのです。

あとで返すから 一時的に預かるといって 収容者から取り上げたカバンには、あとで戻ってきたときに判りやすいようにと、収容者が ペンキなどで書いた 名前、住所などが 大きく書かれ、そのカバンは 勿論持ち主に返されぬまま、山積されて 置かれてあります。

この収容所だけで、2万人以上収容していたのです。
そして、75%が殺されたのです。

ドイツから奪ったものを、ただ取り戻しただけだ、と当時のナチスは広言していたそうです。

この頃から、各ガイドのまわりは 熱心に話を聞く観光客によって集団があちこちに出来、ガイドの喋る各国語だけが響いて、観光客は一様に押し黙り、廊下ですれ違うときも、大変な混雑なのに、文句どころか こわばった表情を隠しもしません。

日本のツアーは 最近はガイドがマイクに向かった喋ると 観光客は レシーバーでその音声を聞けるため、10メーターくらい離れていても説明が聞けます。

しかし 他国の観光客では このイヤホーン式のレシーバーを使っているのは見かけず、従って、大声を出して説明せざるを得ないのです。

勿論、みんな一言一句聞き漏らすまいと必死ですから、静寂の中にガイドの声だけが響き渡っていました。

幾つかの建物を回り、内部の3段ベッド{この1段に4,5人が詰め込まれていた}、トイレ、洗面所なども見られます。 囚人の生活、衛生状態、囚人を使った人体実験、そうした現場が 当時のまま残されています。

そして、建物の前には 何人かの人々が 階段に座ったりしているのですが、ガイドの中谷さんの話では イスラエルから来た人が多く、当時、祖国もなく ここで死んでいったユダヤ人の身内のことを思って、動けなくなる人が多々いるとのこと。

現在も続くイスラエル問題も ここで討議したら別の結論が出るのではないかと思わせる光景でした。

中谷さんの説明は淡々と余計な感情を交えず、真実のみを語る素晴らしいもので、ツアーに付いていたポーランド人のガイドも「彼の説明は最高」と絶賛していました。

囚人の特別牢獄、銃殺に使われた死の壁(銃殺には消音銃まで使った)そしてガス室、死体焼却炉。 絞首刑用の木枠。

シャワーを浴びさせるといつわって連れ込んだガス室では、当時、青酸ガスを出した穴までそのままです。

110万とも150万人ともいわれた囚人が殺され焼かれたのです。 囚人の名簿が無いのですから、人数は推定せざるを得ないのです。

このチクロンBという殺虫剤(殺人用化学物質)の発注書の控えまで残されています。

死体処理も 同じ囚人を使ったいたとのことですが、彼等には よい食事や衣類を与えて優遇し 最後は口封じで殺す、というやり方を繰り返していたとのこと。

ナチスのやり方は、囚人同士を巧く使い、ゲートの前で 働きに行く囚人を励ます音楽を演奏するのも囚人、食事を作ったりするのも勿論囚人
こうして、選ばれたものを巧みに操り、ナチスに協力させたのです。
誰か心理学者を使ったのではないかとも思わせるやり方です。

ここまで見るだけでも、相当な勇気というか、エネルギーが必要でした。

この焼却炉の近くに、この収容所のヘス所長の住んでいた家が残っています。
彼は、戦後逃げた後逮捕され、ここで死刑になったのですが、そのとき「俺はヒットラーにだまされた」と言っていたそうです。
全員が被害者意識になったのですから、凄い手口です。

ここまでで、かなり書くのに疲れました。

どうしても見ておきたいとの願いで行ったアウシュヴィッツですが、こうして思い出して書くだけでも、あの惨状を思い出します。

以下、次回に書きます。

どうか、健康の回復に主力を注いで、疲れないように、ご留意を。

(06/08/31)