Sunday, April 30, 2006

RE:暫くお休み(06-04-30)[s]

コンピューターの調子が不具合なのですか。 暫くお休みになるとのこと。 わかります。

私がパソコンに接したのは10年以上前。 その頃は私ももう少し若くて、習うのにチャレンジはあったものの、今は別。 人が新しいトリックを教えてくれようとしても、頑固さが先に立って、脳が受付けません。 これもエージングの証拠。 アンビションが消えました。

貴兄のパソコンのチューンアップが終わったら、お便り復活を楽しみにしています。

暫くお休み(06-04-30)[o]

今度のアパートに満足されている便りを拝見し、
自分のことのように 良かったナーと思っています。

気に入っていた浦安から移った小生には 、羨ましい話です。

パソコン調子悪いため修理に出すので、半月くらい発信できないと思います。
ご了承下さい。

Friday, April 28, 2006

怠け気味のこのごろです(06-04-28)

「ビデオのことその3」を拝読しながら、その返事が遅くなってすみません。

なんとなく春の陽気に、体も心もゆるんでしまって、ボーッとしたまま2~3日が過ぎてしまいました。 特に体調が悪いわけでもなく、ただ草木がしおれるように、ソファの上に寝そべってラジオやテープを聴いています。

私は退職して10年。 その前の5年間も、仕事らしい仕事はせず、CBCで最も役にたたない従業員でした。 日本では、退職金が出ますが、カナダでは、私のような下っ端には、ボーナスも退職金も出ません。 5年間は退職金の分割払いだと、自分に言い聞かせて、口実にしていました。

モントリオールからの日本語放送の仕事がなくなったのは15年前。 日本語セクションには、日本人の男女が数人いましたが、チームワークの不得手な私には、まことに居心地の悪い職場。 しかし1991年全員解雇。 当然私もクビになったものと思って、東京に帰ったのですが、モントリオールから国際電話があり、私にアナウンサー・プロデューサーの給料でよければ、格下げして残ってもよろしいということでした。

私は英語は半人前、フランス語は全くの文盲プラス聾唖。 そういう不熟練労働者にできることと言えば、コンビニストアみたいな所の店番ぐらい。 しかしあれは韓国人の仕事だと言われ、では機械が働いてくれる洗濯屋はどうか。 いや、あれは中国人の仕事。 日本人はやはり庭師でなくっちゃあと促されたのですが、私はアウトドアーは大の苦手。 そこで、プライドを捨て、CBCのフランス語シネマテックに身柄を預けることにしました。 同僚はフランコフォンのジェントルマンばかり。 私はパントマイムで通すほかありません。 私に出来ることといえばコピーをとることぐらい。 しかしみんな良い人達で、「ムッシューアキラ、 ノットアージェント、トゥモロウ」と許してくれました。 シネマテックは私の勤め人生活の中では最高のパラダイスでした。 うらむらくは、その同僚の厚意にフランス語でお礼を言えなかったことです。 CBCでは、フランス語の教師を雇ってくれ、毎朝個人レッスンをしてくれたのですが、私の言語能力では絶望的でした。

貴兄から送っていただいたフランス映画は、日本語のスーパーインポーズのお蔭で、大いにエンジョイしています。 それにビデオなので、部分的にリワインドして、訳を繰り返し、確かめながら鑑賞できるので、喜びと味わいが倍になります。 感謝この上もありません。 

ハワイ・マレー沖海戦も、貴兄の解説で、懐かしいシーンが冴えてきます。 あれは昭和18年ぐらいですか。 まだ戦勝気分で、戦意も高揚、いい時代でしたね。

ツブラヤさんという名前は独得ですが、昔、ある人から、ツブラヤさんの家が売りに出ているから買わないかという話がありました。 変わった家だということでしたが、私共には所詮高嶺の花。 話だけで幻は消えました。 しかしそれから大分たって、私の知人が引っ越した家というのが、造りを聞いてみると、どうも昔の円谷さんの家らしい。 偶然とはいえ、人のつながりは、思いがけぬところで、糸を手繰るように、不思議な縁が見え隠れするものですね。
 
明日は土曜日。 スターバックスのコーヒーでも飲んで、少し眠気をさまし、貴兄のエッセイ、井上さんのエッセイを、読者の皆さんにまた配信することにしましょう。

ビデオのことその3(06-04-26)[o]

猫屋敷さんの情報有難うございました。
確かに、川喜多かしこさんです。ヨーロッパの名画を多数輸入した川喜多夫妻のことを忘れていて、お恥ずかしい限り。
東和商事はフランスで当たらなかったジュリアン・デュヴィヴィエの映画を日本人向きと判断し、どんどん輸入して日本で大ヒットさせた輸入会社としても有名です。

ところで、「ハワイ・マレー沖海戦」は貴兄も戦時中御覧になられたようですが、戦後、昭和40年代だと思いますが、この映画が日比谷映画で上映されたことがあります。
映画の初めに原節子が出てきたら、場内から「オウー!」という声が出て一瞬どよめきました。
その若さと美貌は、場内を圧倒したのです。
彼女の主演した日独合作映画「新しき土」(1936)が最近、国立フィルムセンターで上映されたのですが、気がつくのが遅く、見逃してしまい、本当に残念でした。
でもフィルムが残っているのが判ったので、次回には絶対見ます。

話が飛んでしまいましたが、戦時中の映画としてはかなり良く撮られていると思います。
山本監督は軍機秘密になっているところを写さぬように苦労したそうですが、マレー沖海戦で
97式陸攻は出てきますが、実際に共に参加した一式陸攻は画面に出てきません。
後に山本五十六が乗っていて撃墜された通称葉巻の一式陸攻は当時はまだ秘密だったのでしょう。

戦闘機、艦爆などが空母から飛び立つところは、ニュース映画からの借用でしょう。

主人公が飛行機の操縦訓練をする土浦の予科
練は、ここでは原節子は登場しないのですが、
岩崎嘉秋という人の書いた「われレパルスに投弾命中せり」を読んでいたら、原節子がこの映画のロケで来ていて、教官でいた岩崎氏が一緒に撮らせてもらったという写真が載っていました。
自分の出番はなくても、現地ロケには行っていたようです。
岩崎氏にとってはこの写真が宝物のようですが、生き残ってこうした写真を本に載せられたのは幸運な方だと思います。

この映画の最大の見ものは円谷の特撮ですが、これは良く出来ていたと思います。真珠湾は海軍の撮った写真もあり、実物そっくりに作ったようです。

飛行機が飛ぶ場面で、普通は上から糸で吊るすのですが、彼はそれだと糸が見えてしまうとわざと飛行機を裏返して糸を吊るして撮影し、画面では上下を逆さまに戻した、とのこと。

こうすると、糸が下にあることはまず気付かれないわけでこうした努力の積み重ねで、ゴジラに至る特殊撮影の基を築いたようです。

日本の戦時中の戦意昂揚映画は他にもありますが、アメリカも同じで有名なジョン・フオードも撮っています。
あのミッドウエイ海戦のときには彼はミッドウエイ島の防空壕の中で、日本機の爆撃を体験したとのこと。

彼の「ミッドウエイ海戦」も見ましが、あまり出来は良くなく駅馬車・怒りの葡萄・そして一連の騎兵隊ものに比べると雲泥の差です。

戦意昂揚映画はけっこう作るのが難しいのかもしれません。軍歌の方がやさしいかも。

 滅びたり 滅びたり 敵東洋艦隊主力は
 マレイ半島クアンタン沖に
 今ぞ沈みゆく 敵東洋艦隊主力は
 今や沈む レパルス プリンスオブウエールズ

こうした歌は今でも歌詞をほとんど覚えていますから、怖いものです。もっとも間違っているかも。

懐かしの珍品ということで送りましたので、楽しんでください。

最近体調不良ですが、家内には黙って動いています。
貴兄の眼が良くないのにビデオを送ったりして申し訳ないのですが、見える間は楽しんだ方が良いかな?と思い直し、送った次第。
また、ダビングできたら様ざまなNO1を送ります。

期待しないで待っていてください。        

Sunday, April 23, 2006

ビデオのことその2の続き(06-04-23)[o]

ビデオのことを書いて途中で一休みしている間に、送信されてしまいました。続きを送ります。

ジェローム・ロビンスのことですが、彼はかなり
ニューヨークにこだわっているようで、この「踊る大紐育」もこれだけではビデオ化も、レコード化も
許可しなかったらしく、ニュ-ヨークにいた友人に
1950年代から60年代にかけてこのビデオやレコードを探してもらったのですが、遂に見つからず
残念に思ったことがあります。ビデオも1990年代に入ってやっと出てきたのです。

2~3年前にこの「踊る大紐育」がブロードウエイで上演されるとの新聞記事があり、是非行きたかったのですが、丁度家内が倒れて看病の真っ最中、断念しました。

恐らく、ニューヨークをロケするミュージカルは2度と出ないと思います。
映画を見てこれがミュージカルNO1と思うかもしれませんが、他のミュージカル作品を見て比較すれば、この「踊る大紐育」がいかによく出来ているか判ると思います。

次回は3本目のビデオの話を送ります。

ビデオのこと その2(05-04-22)[o]

この映画の話は、貴兄が見る上での参考になればと思って書き始めたのですが、このごろに載せるのであれば、もう少し上手く書かねばーでも、無理だと思います。

「踊る大紐育」をミュージカルの1位に上げたので、貴兄も驚かれたのではないですか?
ウエストサイドなど名作といわれる作品が多いのに、何故かと聞かれると小生の答えは一つ。
この作品にミュージカルの面白さの原型が全て
詰まっているからです。

アステア・ロジャースの頃から、アメリカのミュージカルはその規模といい、楽しさといい、他国の音楽映画を圧倒してきました。
これは未だに続いています。
対抗出来たのは、「シェルブールの雨傘」だけだと思います。

そしてその基礎を確固たる物にしたのが、ジーン・ケリーだと小生は思っています。
彼はMGMにいて最初恵まれず、1944にコロンビア映画に貸し出され「カバー・ガール」に出たのですが、そこでいろいろアイデアを出したのが認められ、MGMが慌てて呼び戻して1945年に「錨を上げて」を撮ったのがスターへの始まりといわれています。

この「踊る大紐育」の前後にも「踊る海賊、いつも
上天気、巴里のアメリカ人、雨に歌えば」など数々の映画がありますが、唄って踊れて芝居が出来る才能は凄いものです。
そして、「踊る大紐育」にはダンス、歌、バレー、
ジャズ、など音楽的要素の全てが含まれており、
他の作品はみんな亜流です。

小生この映画を1週間に13回見たと手紙に書きましたが、実はこの映画の前に12回見た映画があります。
それもミュージカルで「姉妹と水兵」という作品で
ジューン・アリスンとグロリヤ・デ・ヘブンが姉妹でハリー・ジェイムスがあのトランペットを思う存分吹いていました。
1944年製作の映画ですから見たのは中学生のころです。

それまで「イースター・パレード」なども見ましたがいまいちで、この「姉妹と水兵」でミュージカルの面白さがわかりかけてきて、ジーン・ケリーの
凄さに圧倒されたわけです。
高校3年で1週間に映画館に5~6回入って13回見たのですから、映画研究部の連中にもあきれられました。

「踊る大紐育」の曲の中では「メイン・ストリート」
が好きですが、映画の曲のおかげで英語をずいぶん教わりました。
YOU CAN COUNT ON MEなんていう言葉もこの映画からです。
フランク・シナトラとジーン・ケリーがタイトルで同列なのにもびっくり、シナトラはもっと上とばかり
思っていましたから。
アン・ミラ-の脚の長さににも驚きましたが、ケリーは彼女のほか、シド・チャリシーという同じように脚の長い女優を良く使っています。

放送作家になって暫くして、頼まれもしないのに「8つのハートの物語」というテレビ・ミュージカルをこっそり書いて、NHKのプロデューサーのところに持っていきました。男女各4人の恋物語です。
1966年か67年の話です。

そのときのプロデユーサーの答えは今でも覚えています。
「阿部ちゃん、男4人で唄って踊れて、芝居が出来る役者なんかいないよ、唄えるのがダーク・ダックスかデユーク・エイセスくらいだろう。無理無理。
女は日劇ダンシングチームからでも松竹歌劇団でも持ってくれば何とかなるけど、男がナー。
面白い台本だけど、作れないよなー。」

それ以後、何回かそのプロデユーサーとジーン・
ケリーを日本に呼べないかと話したことがありますが、一笑に付されました。
ギャラが見当もつかず、当時話題の「コンバット」という戦争テレビドラマの脚本料が1本1万ドル、
360万円と聞いて、我々作家のギャラがこんなに違うのに、(当時、小生のギャラがラジオで30分
で1万円?/勿論安い方でしたが)タレントのギャラなど想像を超えていました。

この映画の原案を書いたジュローム・ロビンスが
日本に来たとき、「ニューヨーク・ニューヨーク」
というタイトルのミュージカルでこの映画の一部が流れましたから、これは彼の「ニューヨーク・
ニューヨーク」

Saturday, April 22, 2006

名画の手引き、感謝します(06-04-22)[o]

ご恵送いただいがビデオに引き続き、今度は、映画の成り立ちの背景を懇切にお教えいただき、感激しています。

おかげさまで、映画鑑賞の味わいが深まり、感動も倍加されます。 

貴兄の深い考察と体験に基ずくエッセイは貴重なもの。 ウェブサイトの読者ラウンジにも掲載させてください。

私は、フランス映画については、ほとんど知りません。 鹿児島の映画館が、芸術的なフランス映画は算盤に合わないと考えたからでしょうか。 多感な高校生時代に、こうした名作に触れる機会がなかったのは残念でした。 
しかし、今こうして、貴兄のご厚意で、時代を超えた名作を、ゆっくり鑑賞できる幸せを心行くまであじわうことができます。

陽気もよくなりました。 よい春をお過ごしください。

ビデオのこと(06-04-21)[o]

メールを打つ元気も無く、家事と仕事だけこなしているうちに、2週間くらい経ってしまったようで 申し訳なし。

ビデオを送るときも連絡も出来ず、重ね重ねお詫びします。

ルネ・クレール(1898~1981)は 「巴里の屋根の下」を見たあたりから その演出の巧さ・音の使い方の巧みさに引き寄せられ、小生の好きな外国映画監督の NO1になりました。

中学高校と 映画館に入るのを見つかったら退校処分をものともせず、映画館に通い詰めましたが このクレールもその対象でした。

ジャック・フェーデ 「女だけの都」、ジュリアン・デュヴィヴィエ 「望郷・我等の仲間」 ジャン・ルノアール 「大いなる幻影」と ルネ・クレールが、1930年代からのフランス映画黄金時代の4大巨匠といわれた人たちですが、デュヴィヴィエが 日本では一番人気があったようで、親父も彼のファンでした。

望郷がなんといっても最高人気で、ジャン・ギャバンとミレーュ・バランの共演が素晴らしく、最後に 波止場で、ギャバンが 「ギャビー!」と叫ぶと 汽笛の音にかき消され、ギャバンが隠し持ったナイフで腹を刺すラストシーンは 本当に良く出来ていました。

クレールは 演出の巧さが光るだけでなく、「自由を我等に」のように チャップリンの「モダン・タイムス」のずっと前に流れ 作業・大量生産方式への風刺を見せたり、「最後の億万長者」で 政治を冷笑したり、かなりの才人だと小生は思っています。

なお、チャップリンのモダン・タイムス が、自由を我等に の盗作といわれたときに、クレールは そのことを荒立てず、チャップリンの才能を褒めた という話があり、個人主義のフランス人には珍しい存在かな、と思ったことがあります。

巴里の下町の石畳、階段、アパート、煙突に 彼の巴里への愛情を強く感じます。

パリジエンヌとはこういう人かと思わせたアナベラが、丁度10年前に亡くなった時、小生の生まれる前に出来た「巴里の屋根の下」や「巴里祭」などの名画が 本当に消えていく感じがしました。

彼女は この「巴里祭」で人気スターとなり、ハリウッドにも行き、タイロンパワーと一時結婚していましたが、その後恵まれず、1954年に引退したのですが、まさかずっと生きているとは思いませんでした。(1910~1996)

アナベラと共に 悪女役で出ているポーラ・イレリは クレール監督に見出されて 屋根の下 と 巴里祭 の2本に出ていますが、その後は良く判らず、もう亡くなっていると思います。

それにしても、7月14日の原題を 「巴里祭」と名づけた巧さに驚きます。

確か 後の有名な映画評論家がつけたと聞きましたが、名前が思い出せません。 淀長ではなかったと思います。 大田黒あたり?

この映画のせいか、世界観光が自由化されたとき、日本の観光客が巴里を訪れると この下町に案内してくれ、という話がよくあったそうです。

残念ながら この映画は セットで作られており、現実には無く、この前の 「巴里の屋根の下」 のセットの一部は 映画会社の事務所にまだ使われている と聞きました。

小生が 海外観光で 一番最初に行ったのは ヨーロッパで クレールやギャバンが歩いた街ということで 巴里を夢中で歩きました。

凱旋門の近くで テラスの喫茶店に立ち寄り、コーヒーとケーキをフランス語で注文し、通じた時の嬉しかったこと!
パリジャンになった気分でした。

高校で第2外国語でフランス語をとったのも、一度 クレールの住んだ街に行って、フランス語を 少しでもいいから使ってみたかったからです。

今日は、1本目の 「巴里祭」だけで書きすぎたので 止めます。

また、2,3本目の思い出など送ります。

何とか仕事と家事だけはこなしていますから、ご心配なく。

Wednesday, April 19, 2006

名画のコレクション、拝受しました(06-04-19)[s]

たった今、小包が届きました。 大きいものなので何だろうと、早速開封したところ、フランスの名画、ニューヨークのミュージカル、それにハワイまれー沖海戦と、貴重なビデオがつまっていました。 驚きました。

心身ともにお疲れのところを、かくも大事な映像をご恵送いただき、感謝の言葉もありません。

洋画2本は見たことがなく、ハワイマレー沖海戦は65年ぶりになりましょうか。 早速洋の東西をわかつ名画の鑑賞をさせていただきます。 有難うございました。

この頃、お身体の具合、お仕事の方はいかがですか。 春とはいえ、気候も不順のようですね。 バンクーバーも陽春とは言いがたく、風が冷たいので、外に出る時は、ジャケットを羽織っています。

どうかお大事に。

深い感謝をこめて。

Saturday, April 08, 2006

私の欝もなかなか直りません(06-04-08)[s]

気候が快適になったので、近辺を時々散歩しています。 万歩計というものがあるそうですが、一万歩あるくのに何分ぐらいかかるものでしょうか。 私の脚は遅いので、1時間とか1時間半歩いても、若いコンパスの長い人達にドンドン追い抜かれ、比較になりません。 私も今年秋75になりますが、まだ盲人用の白い杖は貰っていませんので、時折アルミのステッキをついて出かけます。 これは実はこけおどしでして、狭い歩道で人と擦れ違う時に役立ちます。 向こうもちょっと譲ってくれるので、悪い気はしません。  今は納税のシーズンですが、「身障者として登録すれば税金が安くなるよ」と智恵を貸してくれる人もいます。

私の入居しているアパートには、130世帯が入っていますが、若いカップルは別として、年を取った老人の独り住まいが多いのに気がつきました。 中には若いのに両足の無い人もおり、車椅子の利用者は大勢です。 電動の車椅子で、バリアフリーの道路を横切って買物に行くのですが、4,000ドルもする車椅子に乗ってスイスイと私を追い越してスーパーに向かいます。 日野原先生によると、75歳から「新老人」の仲間入りが認められるそうですが、私など目が見えないとぼやいてはいるものの、まだ40万円もする車椅子のご厄介になっていないので、新老人の資格は疑問です。  アパートのジムもプールもサウナもまだ試みていないのですが、延ばしているうちに夏になりそうです。

アパートからワンブロックの所に映画館があり、シニアーは4ドル400円と低料金なので、私もこれから出来るだけ足を運ぼうかと考えています。 先日初めて入ってみたのですが、アカデミー賞を幾つも貰った良い映画なのに、観客は数人がパラパラッと。 映画館はカナダでも不況産業ですが、他人事ながら心配になりました。

私の腹立ちはなかなか直らないので、キリスト教的にいえば、「悪霊のアタック」かもしれません。 心理学者や若い精神科医にかかっても効果がないので、最近は家内に祈ってもらっています。 うちの次女は高校生の頃は信仰に燃えていたのですが、大学に入ってからアグノスティックスつまり懐疑的になり信仰から離れてしまいました。 大学は「信仰」と「処女」を失う所だと言われています。 その次女から最近Eメールが来て、或る問題について「祈ってくれ」というのです。 家内も驚き、かつ喜んでいます。 祈っても、神は「NO」と答えられることもあるわけですから、こちらの思うような結果は出ないかもしれませんが、私のケースも時間をかけて待つほかないと思います。 

Thursday, April 06, 2006

遅い返事で申し訳なし(06-04-06)[o]

メールを戴きながら、返事遅れて申し訳なし。

前回、最近腹立つこと多く、と書きましたが そのせいもあってか 家内の言うことに我慢しきれず ツイ一言言ったら、案の定翌日には寝込まれ、また 1からやり直しです

きついことは絶対に言ってはならぬことは、身に沁みてわかっているのですが、凡夫の悲しさ、またやってしまいました。

鬱は これだけで 再発するのです。

今は小生、超夢遊病的な日々を送っており、仕事も A4の紙1枚の文章を作るのに 1週間以上かかる有様。

来週 井上氏と会うのですが、どうなるか心配です。

教会の話、小生にもいろいろな思い出があります。

生まれた中野区氷川町では 家の斜め向かいに教会があり、日曜学校でお菓子をくれるのが楽しみで よく行きました。

賛美歌を覚えたのは この頃です。

お袋が晩年信者になったのは、このときの影響かもしれません。

1年いた青山学院では 原書で聖書を読まされましたが、何も覚えていません  

それよりも 戦後のアメリカ式教育で 「天照大神は架空の人物だが、キリストは実在の人物」と言われ、納得できなかったのを覚えています

今は お袋の法事を 5年ごとに 教会でまとめてやってくれていますが、小生は墓参りだけで 教会には行っていません。 したがって、牧師の話も聞いておりません。

息子さんがどういう話をされているのか、聞いてみたい気もしますが、イエスがーと始まると どうもダメです

坊主の話の方が生臭くて、人間的な香りがします。 でも、南妙法蓮華経を唱えれば極楽浄土に行けるというのもどうも。

要は 各自の考え方一つで、極楽、地獄も 人間の作ったものでしょう。

死んだら無だと 小生は思っています。

話が難しくなりました。

中学3年卒業程度の学力で読み、判る文章を書くことを常に念頭に置いているせいか、難しいことは苦手です。

池田弥三郎さんの授業も聞きましたが、「バスガイドとは結婚するな、臓器が下がっている」という話しか覚えていませんから、ひどいものです。

卒業50年、皆がどんな人生を歩んだかはわかりませんが、こうしてメール交換が出来るだけでも 恵まれていることは確かです。

貴兄の「カナダこのごろ」に知り合えてよかったと思っています。 有難うございました。

少し頭が動くようになったら、また、きちんとしたメールを送ります。 今日はひどい文章で勘弁を。
     

Sunday, April 02, 2006

教会のことで恐縮ですが(06-04-02)[s]

貴兄のご両親が逝かれてから30年になりますか。 私の父は45年前に亡くなり、母親は35年前に亡くなりました。 二人とも癌で亡くなりました。 ですから私もその遺伝子を持っているわけで、いつ宣告を受けてもおかしくないのですが、今までのところ、15年程前に、一回だけ、内科の先生から「怪しい」と、怖い顔で言われた事があります。 結局は、そのレントゲンにみえる影が変化しなかったので、その時は放免にされたのですが、「クルーシャル」と言われた時は、(ああ、遂にやってきたか)と思いました。

両親とも別段信仰は持っていなかったのですが、死の直前、ベッドで、洗礼を受けました。 私はいわゆる「Bible carrying, church going non-believer」といわれるタイプに近いのですが、もし天国に行けたら、両親と再会できるかもしれないと、希望をつないでいます。

父の母は、明治の初めのクリスチャンでしたが、病気で寝たっきりの祖父の面倒をあまりよくしてやらなかったので、父は「クリスチャンといっても」と、腰を引いてしまったそうです。 人は、聖書を読まないで、人を読むものなのですね。

東京にいた頃私が通っていた教会は、大学生と中年の主婦の多い教会でしたが、主婦は早く帰って昼御飯の支度をしなければならないので、それに合わせて、礼拝の時間も影響されていたようです。

バンクーバーのうちの教会は、日曜の朝、2回礼拝がありますが、9時半の礼拝の方が11時15分の礼拝より参加者が多いので、若いのに日曜の朝早起きするのは感心だと、私はクビをかしげています。

バンクーバーは、北米で一番信仰心の薄い街で、市民の3%しか礼拝に出ません。 昔は50%いたそうですが、アメリカでは、今も70%の人が日曜礼拝に出ていると聞いています。 しかしそういう人達がブッシュに投票したのですから、これにも頭をかしげてしまいます。 また礼拝に出るからといって、そのうち何パーセントが本当のクリスチャンでしょうか。

私は、息子が説教する礼拝には出ないで、台所で、コーヒーや菓子パンを用意しています。 説教の間居眠りすると、「牧師の父親が」と指をさされるでしょうから。 それに最近前立腺が肥大してきて、オシッコが近くなり、頻繁にトイレに通わなければなりません。 映画館や音楽会にも行けません。 その点ビデオが最高です。 ですから貴兄に送っていただいたビデオを繰り返し鑑賞しています。 

うちの教会は、古い建物ですが、十字架が外にありません。 井上さんが来られた時も、十字架を目当てに考えていたので、なかなか探しにくかったと仰っていました。

私の第一印象は、川崎か周辺地区にある、二部上場の電子部品の工場といった感じ。 駐車場も乏しいので、皆さんに迷惑をかけています。 教会の近くに来てから、駐車するのに20分かかると言われます。

来る人は、大体若い人が多く、それも男の人が多いのはどういうわけかと、これまた頭をひねる材料の一つです。 近頃は、東洋人が増えてきました。 牧師が若い東洋人だからでしょう。 それに、息子の説教は、私には難解です。 つい白昼夢にふけってしまうのですが、皆さんはわかっているのかなあと、これまた余計な心配。

若い男の人達の中には、(こんな人がどうして教会に来るのだろう?)と思いたくなる、人相のあまり芳しくない男性も結構いるのですが、リンカーンの説を逆手にとらせてもらえば、「40までは人相に責任はない」ということになりましょうか。 年寄りにはいい顔の人が多いから、(人相の悪い人でも長く来ていれば人相もかわるのかな?)と、これまた勝手な推測です。

このごろ「アンチエージング」が話題になっているそうですが、整形手術よりも、礼拝の方が、金もかからないし、痛くもないのでは(?)と思うのです。