Tuesday, May 31, 2005

お疲れさん?(05-5-31)

奥様無事ご帰宅、まずは3週間お疲れ様でした。
また、元の生活が始まって感想いかが?私は看病しないで済めば最高だけど、貴兄の場合はいろいろ感想がありそうでしかも来年は無しとか。高齢者社会の問題は多く、複雑です。

一昨日NHKのニュースを見ていたら、二子山親方が亡くなったことを街頭にいる人に感想を聞いている場面で、突然、F組の笠井君の顔が出てきてびっくり。彼は「同世代の人ですから」と答えて、アナウンサーに「まだ55歳だった」といわれてそれでも平然としていました。
新橋か有楽町あたりでたまたまインタビューを受けたらしいです。
同世代とは少し、ずうずうしいとは思いつつ、こうしてテレビに映ればおそらく100万人くらいの人が見ていて、「おー、笠井も元気だな」と思った人も何十人かは、いたと思います。
こんな形で、元気でいるよ、と知らせる方法もあるんですね。
彼は一生現役をモットーにまだ不動産会社で働いており、画面でも、背広にネクタイ姿でした。
私は「放送作家みたいな仕事は裏方に徹すべきでテレビに映るなんてとんでもない」という信念でいましたから、出る機会があっても全部断りましたが、そんな考えだとこの世の中は損するだけかもしれません。

先日、「安城家の舞踏会」という華族の没落を描いた1947年吉村ハムさんのビデオを見ていたら、安城家に来る方、帰る方との挨拶が全部「ごきげんよう」で、こんにちは、いらっしゃい、さようなら、といった言葉は全く出てこず、最初は違和感すら感じました。勿論、華族が使うのですがー。

でも、考えてみると「ごきげんよう」は以前は、よく使われていたのに、死語になってしまったのですね。
たまに、テレビの番組のタイトルに使われますが、中のタレントの使う日本語は、もう、むちゃくちゃです。

私は、「ムカツク」とか「チョー・####」といった日本語を聞くと、こちらがいらいらする方なのですが、それにしても、美しい日本語は消えつつあります。
最近、「有難う」の代わりに「すみません」とか「すいません」といった使い方も多くなりましたが、これも、本来の言葉の意味からすると、おかしい言い方ですね。

時代で言葉が変わるのは致し方ないのかもしれませんが、聞いてて聞きずらい日本語は勘弁して欲しい、と、つくづく思います。それとも、こちらがそれだけ年老いたということなのでしょうか。

もともと日本語は使い方の難しい言葉で、「ごきげんよう」がこんにちは、さようなら、いらっしゃいに使えるといっても、英語圏では理解しにくいことかもしれません。
この映画を英語版で見たら、恐らく、ごきげんようの一言の台詞で表すことはなく、それぞれの場面に合った言葉に翻訳されることでしょう。

僅か五十数年前の映画がもう、過去の遺物のように感じられるのも、日本の文化の変化のはげしさを物語っているのかも知れません。
こうした言葉の変化を外地の日本語学校はどうやって教えているのでしょうか。気になりました。

今年のミスユニバースはカナダの代表が23年ぶりになったとのこと。こうしたコンテストが続いているのは平和で良いですね
では、また。

Monday, May 30, 2005

妻も戻りルーティンも戻りました(05-5-30)

独り住まいも終わり、ワイフが帰ってきて、体操や散歩をボツボツやらされています。 3週間の私のホリデーもおしまいです。 また来年の5月まで、ブロッコリーとカリフラワー、野菜サラダにヨーグルトかと思ったら、来年は、義母の希望で、里帰りもお休み。 義母は91才。 今でも毎週火曜日はダブルスながらテニスをやっているのですが、そんな人でも、年に3週間二人の娘が戻ってきて、さほど大きくもない家にいると、疲れるらしいのです。 その娘も70なんですから、出かける方としても、1年おきになれば、助かると、本音をもらしています。 
小森宗太郎という人のことは、日本列島の端にいても、新響や日響の尾高尚忠とかローゼンシュトックというマエストロ達の名前と共に、畏れ多くも承っていました。 海軍軍楽隊出身の小森宗太郎とい日響の理事がいて、その禿げ頭がティンパニーの席にいないと、オーケストラが締まらないんだと、東京帰りの音楽通に聞いたものです。 リズム感を養うために、ロシアでダンスも習ったのですか。 それともあれは伝説かな? それにしても、貴兄も椿事に出くわしたものですね。 小森さんの子息は慶應の医学部だったのに、やはり音楽の道に進んだと聞いて、いずれはそのうち日本の音楽系譜を飾ることになるのではと思います。
まあ、私の音楽の素養は、音楽之友あたりで読みかじった付け焼刃。 それに比べ、貴兄はN響の会員だったのですから、仕込が違います。 村田先生も、答案の行間を読みとって、AとCの差をつけたのでしょう。 
ディアナ・ダービンがカナダの人だったとは知りませんでした。 1970頃、BBCラジオを聴いていたら、イングランドの田舎の婦人が、村でディアナ・ダービンに出会った話をしていました。 あの映画から30年以上経っていた筈ですが、一目みて判ったのですから、美貌と眼の輝きは変わらなかったのだろうと想像します。 私は椿姫のオペラを観たことがないのですが、乾杯の歌を聞くと、ディアナ・ダービンの顔が浮かんできます。 アパートでフルーティストの弾くピアノで、彼女が歌う曲。 あれも、あの映画以外で聴いたことがないのですが、忘れられない魅力的な曲です。
「えり子とともに」というドラマで、お姉さまが音楽を担当しておられたのですか。 有名な連続ドラマでしたが、そのストーリーを覚えていないというのは、その頃自分は何をしていたのやらと、菅原電機の名とともに、記憶がタバコの煙のように消えていったことを少し寂しく思います。
ご姉妹とも長い間お会いになる機会がないと伺って、我が身を振り返ってみると、私もたった一人の弟がここから車で20分ぐらいの所に住んでいるのに、半年以上会っていません。 電話では時々話すのですが、絵を描いたり、ブログを書いたりして、忙しくしているようです。 思いついて明後日訪ねてみることにしました。
貴兄のノートを借りた奥井さんがトップの成績で出たのですか。 それは全くの初耳でした。 恒川君が、ボート部で忙しく、級友のノートを借りて、いい成績をとっていたのは知っていましたが。 奥井さんは、修道院に入られたのではなかったでしょうか。 私には遠い世界の人のように思えました。  

Saturday, May 28, 2005

奥様お帰りになりましたか(05-5-28)

そうですか、やはりピアノを弾かれるのですね。
貴兄宅に伺った際、ピアノがあったのでお聞きしたら、「大家のもの」とあっさり言われたので、そのままになりましたが、貴兄も時々は鍵盤に向かわれることがあるのでしょう。
羨ましい限りです。小生は兄弟四人の中で唯一指が動かず、<ハ二ホへトイロハ!>の音符も読めず、惣領の甚六の名をほしいままにし、そのためか、敬遠されたのか、付き合いもなく、姉や妹はもう十年以上会っていません。
姉の話をしたのは貴兄が初めてかもしれません。
お袋から「お前はもっと勉強すれば東大か一ツ橋に入れた」と私立の金食い虫みたいによく言われましたが、姉のバッハのお陰で勉強できなかったとも言えず、我慢するのみでした。
でも、そのお陰でクラシック音楽に馴染めたのですから、分らぬものです。
映画音楽の作曲家は当時は有名人は余りやりたがらなかったのではないでしょうか。
団さんは夕鶴の作曲などで活躍され、映画を手がけたのは少なく「真空地帯」ぐらいだと思います。因みに調べたら早坂文雄・女優、四つの恋の物語、酔いどれ天使、生きている画像、静かなる決闘、暁の脱走、羅生門、醜聞、めし、       風雪二十年、生きる など黒沢作品が多く 木下忠司・安城家の舞踏会、破戒、破れ太鼓、お嬢さん乾杯、カルメン故郷に帰る、愛妻物語など斎藤一郎・長屋紳士録、花咲く家族、稲妻、おあかさん、西鶴一代女 伊福部昭・銀嶺の果て、幸福への招待、偽れる盛装、伊藤宣二・蜂の巣の子供達、風の中の牝鶏、晩春、森の石松、麦秋  大木正夫・また逢う日まで、山びこ学校などがあり、他にも服部良一、黛敏郎などいました。

日本ではクラシックは少数派とよく言われていましたが、この前のG,Wに都心で「ベートーベンの夕べ」を10日もしたのに、連日満員だったとのこと、要は1,000円~1,500円という安い料金でフランスからきた演奏家や楽団の良い音を聞かせたからです。
良い音楽を聞かせればお客は入るのです。
来日公演も数多くありますが、何故、万単位の料金を平気で取るのか良く分りません。海外に行くより安いからと友人はイタリアオペラに数万円を投じて行きましたが、小生は貧乏人なのか全く行く気がありませんでした。
プロモーターが儲けすぎるのか良く分りませんが、安くて良い音楽を聴ければ最高。
一日働いたお金で、夕食を食べ、音楽など聴いて、旅館に泊まる、これが全く出来ないのが日本の現実。
特に、音楽会と旅館の値段の高さは驚くべきものがあります。
これでは文化的生活など夢のまた夢です。

そろそろ、奥様ご帰宅のことと思います。明日の日曜日はひさしぶりにお二人そろって教会へお出かけでしょう。
小生、家事全般に追われ、また沈黙の一週間でした。
こんどは、カナダこのごろに使えそうな話を書くべく努力します

Thursday, May 26, 2005

映画音楽のゲーム(05-5-26)

さすがに新宿高校は高級ですね。 私の行った高校では、野球部はあっても、映画研究部なんて洒落たものはありませんでした。 家内の出た青山学院高等部は今でも同窓会の会報が送ってきますが、それを見ると、いい雰囲気の学校だったようですね。 顕官高官から歌手歌舞伎俳優まで多士済々。 私の中学高校は、岩田豊雄(獅子文六)の「海軍」という小説の舞台になった学校でしたが、青山には遠く及ばないというのが私の個人的な気持です。 弟は、鹿児島の進学校ラサールから青山高等部の編入試験を受けて、保留扱い。 幸い慶應高校に受かったので、受験勉強はせず仕舞い。 浪人の兄と違い、青春を謳歌していました。
例によって話が横にそれましたが、貴兄があげておられた日本の映画音楽作曲家。 ほとんど知りません。 REGRETTABLY IGNORANT なのです。 名前を聞いたのは芥川也寸志だけ。 団伊玖磨は映画音楽は手がけなかったのですか。 大木正夫のメロディは多分聞いたことがあるはずですが、さて何だったか。 
山田監督、渥美清の「寅さん」はいろんな面で感心するのですが、山本直純の音楽もその一つ。 同じメロディでありながら、シーンに合わせて、編曲とテンポのバリエーションが実に効果的。 観ていて心を打たれます。
ところが、30代の日本人男女が、「面白いとは思うんだけど」という反応をみせるのには驚きました。 世代の違いなんでしょうが、寅さんに期待するファンの声援は国民的なものかと思っていました。 寅さんを招聘したウィーンの市長の方が、現代の若者より日本的なんでしょうね。

長話になってすみません(05-5-26)

そうですか。 バッハをきくと寒気がしたことがありましたか。 なんとなく嬉しくなります。 同じ思いをする仲間がいたかと思って。
私も、一曲だけ、バッハを練習したことがあります。 インベンションの一番です。 それまで、モーツアルトのソナタでも、左手は、右手のメロディに追随する伴奏的動きで、子供心に、ピアノとはこんなものだと思っていました。 ところが、バッハの楽譜を追ってみると、左手も独立した旋律を歌い上げる。 脳が別々に分かれる必要があると思いました。
私は数えの6才から10才まで、ピアノを習いました。 その頃は支那事変の非常時。 軍国主義の鹿児島で、他にピアノを弾く男の子はいませんでした。 小学4年生の時、ピアノの先生が召集さた際は、解放されたような気がしました。  
私の先生は、武田恵喜秀という、奄美の沖永良部島の出身。 笈を負って鹿児島師範に進み、17才の時に初めて鍵盤に触ったという人です。 井口基成も17才から本格的にピアノを始めたと聞きましたが、秋子女史のピアノをいつも聴いていたのでしょうから、東支那海の潮風を聞いて育った武田先生とは、育ちも環境も違います。 昭和35年頃、私が西銀座のサンバードでカレーを食べていると、テレビにフランキー堺が出ていました。 そして故郷の恩師を紹介するというので、みたら鹿児島から中継の武田先生です。 その後武田先生に会ったら、「あの時はフランキーというから、そんな外人は知らんと言うたんだが、見たらなんだ堺君じゃないかとびっくりした」と笑っておられました。 
私が戦前習って居た時は、先生の6畳の座敷にあったのはアップライト。 戦後すぐグランドを購入し、押入れの中に一部入りこんでいました。 最後にお邪魔したのは1991年でしたが、コンクリート造りのお宅にはグランドピアノが2台並んでいました。 80を越した先生は、お嫁さんとともに、モーツアルトのピアノコンチェルトを聴かせてくださいました。
武田先生も、音楽的には不毛の鹿児島で、道なき道をパイオニアとして歩んでこられたのですが、独学でひたすらモーツアルトを追及されたのでしょう。 小学校の先生から鹿児島大学の教授になり、退官後は鹿児島交響楽団の音楽監督をしておられました。
実は、このオーケストラの最初の練習が、町の中にあった我が家の店の2階で行われたのです。 やはり昭和30年頃のことです。 父の友人の音楽の好きなビジネスマンが、自分で楽器を揃え、学生にあてがって、自ら棒を振りました。 高島屋で燕尾服を誂え、名刺も「鹿児島管弦楽団団長」と刷ったのですが、曲馬団の団長といった方がふさわしいカラフルな人でした。 山根銀二氏の弟の銀五郎さんが鹿児島大学理学部の教授でしたが、その初演にきびしい批評を書きました。 すると団長さんが、「電気仕掛けの蓄音機でしか音楽を知らない者が何を言うか。 ポーンと自分で音の一つでも出してみろ」と新聞紙上で反論したので、街の話題になりました。
6才でピアノを始めた私は、婦人之友社から出ていた、園田清秀(高広の父君)編の 「子供のためのバイエル」という上下2巻のアルバムを半年で終わり、チェルニーとソナチネに進みました。 絶対音感が身につくのも自然で、他の人が不思議がるのが不思議でなりませんでした。  それでも戦時色は次第に濃厚。 ということは、ピアノなど誰も構っていられない時勢になったので、音楽に格別情熱を感じなかった私には好都合。 すっかり止めてしまいました。 そして戦災で無一文。 父が中国から復員してきた時は、疎開先で間借りの暮らし。 中一の私は漱石全集を耽読していました。
サラリーマンになってから、大和證券ホールに、その頃毎日コンクールで優勝したばかりの「ソウ(宗?)さん」という少年のバイオリンを聴きに行きました。 その時思ったのですが、「中3まで音楽に専念して、それから受験勉強に切り替えても間にあったんだなあ」ということ。 ソウさんのお姉さんも確か上野のピアノ科でトップだったと洩れ承りましたが、ソウ姉弟も今なら高年の世代。 第一線で活躍を続けておられるでしょうか。
私は初見がききません。 楽譜をみて、鍵盤を探さなければなりません。 初見も子供の時に練習しておけばよかったのにと、今でも後悔しています。 田中文相・最高裁長官が、「年老いてからピアノを練習する喜び」について書いていましたが、確かに、流れるように弾くことはできなくても、ガーシュインでも、一つずつ音を叩いて、コードを確かめると、また味わいも一際ですね。 昔東大で哲学を、上野でピアノを教えていた、ケーベル博士が、「もし無人島に流されるなら、楽譜とオーケストラのスコアを持って行く」と言われたそうですが、それを聞いて、楽譜を見ただけで音楽が湧いてくるとはと、驚き、かつ限りなく羨ましく思いました。 
話があちこちしますが、私が最後に手掛けたのはショパンの軍隊ポロネーズ。 これは結局仕上がりませんでした。 プレリュードの雨だれなら、今でも弾けるでしょうが。 そういうわけで、ピアノの練習は止めても、男子の中学高校で他に人がおらず、舞台の上で伴奏をやらされました。
20年以上前、家内の実家からヤマハのグランドが送ってきました。 私はすっかり錆付いた指の手馴らしにとハノンの教則本を買ってきましたが、指は動きませんでした。 子供達にも習わせませんでした。
「カナダこのごろ」の「運河の旅」でも書きましたが、モントリオールの我が家にイギリス人一家が暫く滞在していました。 リビングルームのベビーグランドをみて、奥さんが「どなたがお弾きになるの」と訊きます。 私が「ゲストです」と答えると、奥さんはそのままニッコリ。 それが火曜日でした。 土曜日になって、寡黙なご主人がポツリと、「妻はピアノを教えていて」と言います。 (ハハン、子供にバイエルやソナチネをね)と思ったところ、「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックでコンサート・ピアニストとして訓練されて」ということ。 私がイギリスかぶれなのは、こうしたアンダーステートメントのカルチャーに惹かれるのです。

懐かしい話(05-5-25)

こちらは連日 20度を超え五月晴れの日が続きますがどうも、ヴァンクーヴァーは 肌寒い気候のようですね
モスクワが20度を超えており、明らかに異常気象の現われです
小生はくしゃみと眼のかゆみに悩まされ、完全に花粉症の症状です。
こんな情けない病気では医者に行く気にもならず、目薬だけ買って、我慢しています。別に、命に関係する病気でもなしその内に治るでしょう。それより家内の看病でじっと我慢するほうが、余程大変。
ワッと叫びたくなるときが多々あり、貴兄同様こちらで医者にかかる必要がありそうです。

ヴァイオリニストの話は、来日時の話ですが メニューイン? だったような気もして 記憶力の衰えをまざまざと感じています。
そのときのコンサート・マスターが誰だったかも 全く思い出せません。 そのとき音色は確かに変わったと感じましたが、前回書いたように音量も素晴らしく、コンサート・マスターが感激して且つ、自分の力量を思い知らされたとのコメントだけは、覚えています。

毎日コンクールは懐かしい話です。実は姉が何回かこれに挑戦し、いつも第二次予選で敗退、最終予選には残れませんでした。でも、このコンクールを何回も聞きに行ったお陰で、上手い人と下手な人が分るようになったことは、今でも最大の収穫だったと思っています。
貴兄が江藤俊哉兄妹の演奏を身近に、しかもただで聞いた話をうかがい、うらやましいの一言です。
小生はベニヤ板の向こうで姉の弾く下手なピアノを連日、聞かされながら受験勉強をしたのです。これでよく大学に受かったと思います。でも、姉が弾いたバッハは以降、好きになれず、特に「平均律」を聞くと、寒気がします。
ドイツへ行った時、ある教会でバッハのお墓を見たときは、感無量?でした。

でも、「アメリカ交響楽」でしたか、映画の中でトスカニーニが<音楽の勉強はバッハ&バッハ&バッハ>という台詞があり姉がそれ見たことかという顔をしたのだけは、残念ながら覚えています。

昔は、日本映画を見るときに、タイトルバックの音楽を聞いただけで、その映画の作曲家を当てるという遊びをよくやりました。
高校の映画研究部で流行ったのです。
斎藤一郎、早坂文雄あたりは当てやすかったのですが、かなり難しいゲームでした。佐藤勝、芥川也寸志、大木正夫、伊藤宣二あたりになるとほとんど勘でしかなく、木下恵介なら木下忠司だと決め付けていたのを覚えています。

でも、音楽はいつでも、どこでも、人を和ませやすらぎを与えてくれます。
小生は、きつくなるとシュトラウスのウインナ・ワルツを聞きますが、これは医者に聞いたら正解だそうです。
今日も音楽を聞かねば寝られないのかもしれません。

番外:柳谷さんメール(05-5-25)

 奥様のお父様は北山村出身とか。あそこは和歌山県の飛び地で、私はいったことはありませんが、小さい頃から不思議に思っていました。 北山村の隣の十津川村は、昔は直轄領で、樵夫も無禄の武士として誇りたかく、剣道や学問をよくしたところです。京都御所の警護は十津川村のものがしたとも聞いたことがありました。明治22年の大水害のとき、村の半分は北海道に移住して新十津川村となったそうです。 実は昔、下手な推理小説を書いたことがあって、あのあたりを調べたことがありました。行ったこともあるのですが、北山村には行ったことはありません。十津川もすごいところですから、北山村も秘境なのでしょうね。ということは重松家にも和歌山県人の血が流れているということですね。笑 この家をさがすまえ、私もバンクーバーでさがしていたのです。ところが小さくてもとても高くて、手が出ませんでした。バーナビーも見てみましたが同じで、不動産屋が、ならば遠いけれどコキットラムはどうかと・・・・。何もわからず住んでみてから、正面に富士山より美しいマウントベーカーが見えるのに気がついたというわけです。 まったく、運命のいたずらで、わけのわからぬ女がここに住まいしているって感じですね。のんきなものです。よく今まで、何事もなく生きてきていると思っています。 ではまた、 柳谷 Chieko 拝

Wednesday, May 25, 2005

江藤俊哉の思い出(05-5-25)

たいへん面白く、充実したお便り、何よりも楽しませてもらいました。 あんな文章だと、どんな長編でも結構です。
ハイフェッツかスターンの話。 あれは日本での出来事ですか。 それで思い出したのが、江藤俊哉です。
ある日テレビで見ていたのですが、多分14インチの白黒が普通だった頃でしょう。 江藤俊哉がオーケストラと協演していましたが、彼が演奏中、自分のバイオリンをアゴから外し、コンサートマスターのバイオリンを受け取って、そのまま演奏を続け、ました。  
その翌日でしたか、新聞に、音楽評論家の批評が出ていました。 「バイオリンの糸が切れて、取り替えて弾き続けたのだが、こうも音色が違うものかと思った」と書いていました。
それから暫くたって、岩淵龍太郎が、同じコンサートのことを書いていました。 「あれは、バイオリンの中のこんちゅう(魂柱?)が外れるという珍しい事故だった。 咄嗟に江藤君は、コンサートマスターのバイオリンをとって弾きつづけたが、あれはたいへん難しいことだ。 バイオリンというものは、弾きこむのにかなり時間を要するものだ。 それを江藤君は音の響きを変えることなく、そのままに演奏した。 さすがは江藤君だ。 江藤君ならでは出来ない業だと感嘆した」と称賛していました。
岩城宏之が、「ピアノもバイオリンも弾けないのが指揮者になる。 指揮者にもなれないのが批評家になる」と言っていたのを思い出しました。
岩淵龍太郎と江藤俊哉は小学校5年生の時に毎日コンクールで争い、江藤さんが優勝、岩淵さんは2位になったのですが、その時の二人の競演は、後世語り草になったほどすさまじいものであったと聞きました。 その後江藤さんは上野からアメリカ留学へ。 岩淵さんは一高から東大へ。 それでも東大在学中新響(日響)に入りコンサートマスターをつとめたそうですね。 今75歳ぐらいでしょうか。 勲三等旭日中授賞が贈られたそうですが、イギリスだったら、Sir か Lord の爵位をもらっていたことでしょう。 そのぐらい、日本の音楽振興に貢献されたのですから。 
あれは私が小学2年ぐらいの頃だったでしょうか。 当時私の家は、鹿児島で小さな店をやっていたのですが、ある日帰宅して、住まいになっていた2階へ上がって行くと、少年がバイオリンを弾き、少女が伴奏をしています。 後で思うと、その晩の公会堂での演奏会に備えて、江藤俊哉兄妹が、チゴイネルワイゼンを練習している所でした。 毎日コンクールで優勝して、鹿児島まで来たところをみると、恐らく全国を公演してまわったのでしょう。
その次に見かけたのは、20年後。 新宿の街頭を、イタリア系の奥さんとお嬢さんの手を引いて歩いているところでした。 江藤さんが、まだ日本人が海外に渡航できない頃アメリカへ留学して、その滞在記を音楽之友に掲載していましたが、華麗な表現の文体が独得で、あの文才なら文筆家としtも大成していたかもしれません。

番外:気持のいい夕暮れ(05-5-25)

井上 出様
 お便りありがとうございました。人生を謳歌しているとおっしゃられるとお恥ずかしい限りです。やむなく、このカナダで、このように暮らさざるを得ないといったほうが正しいでしょうか。
 夫に突然去られたとき、本当に当惑いたしました。私はただ道楽な主婦でしかありませんでしたので、明日からどうして生活すればいいのか、考えがつきませんでした。ああいうとき、人は皆少しおかしくなってしまうのでしょうね。
 夫の旅立ちを拍手で見送ったとき、私はすでに二つのことを決心していました。カナダ移住と本の出版です。 私は長く万年候補作家でした。それも純文学と称する物です。今ではそんなジャンルがあるかとさえ言われそうな代物です。駄作を出版してくれるところは勿論、貧乏弁護士の妻にはそんなお金もありませんでしたが、夫にいただいたお香典で本を出版することを決めたのでした。
 二冊の本を朝日新聞から出版する手配をして半年後、私はコキットラムの住人になっていました。あのまま、日本にいればどうなっていたか、私は夫との思い出に押しつぶされてしまっていたのではないかと思われます。
 私は小説よりも長く油絵も描いてきました。今でも絵描きではなく物書きでありたいと思っているのですけれど、いかにせん、物書きは炊きの元にはなりようもなく、ご飯つきのレッスンのまやかしで、この異郷の地で糊口をしのいでいるというわけです。
 よって、人生を謳歌しているわけではありませんが、どこかカナダのおおらかな風土と国を超えた友人たちのネットワークに守られているのですね。勿論、医療費無料のケアーカードは一番の安心の元ではありますが。
 蛇足ですけれど、過ぐる40年前、私は横河橋梁大阪支店長の秘書を数年していました。支店長は東大出の精鋭で、年上の課長に書類を投げて叱責していたこともありました。普段はとても優しい方だったです・・・・。当時はまだ四国架橋のプランなどが取り上げられはじめた頃でした。今日も井上様が読者ラウンジに書かれ、NHKのニュースでもかまびすしく放映されていますね。事件とははるかかなたで、遠い思い出をさぐっておりました。会社を経営するのは大変なことなのでしょうね。
 鉄骨橋梁といえば、カナダの何もかもがすきなのですが、橋とハイライズのコンドミニアムだけは、私は嫌いです。ライオンズゲートブリッジ、ポートマンブリッジ、セカンドナローブリッジ、それからダウンタウンに林立するコンドミニアムなど、ひとたび地震が来ればおそらく倒壊間違いなしと思われるのです。神戸の地震を目の当たりにしていることと、若い頃、会社が工場でもあったので、とても頑丈そうな鉄骨橋梁を見て来ていますので、そう思えてなりません。
 あらあら、ついつい、つまらないことを書いてしまいました。 お許しくださいませ。
 柳谷 Chieko 拝

私のCは? (05-5-25)

そうですか 村田さんでCですか!信じられません
小生もあのSP版を聞くため 一度も休まず<他はさぼったということ>出ましたが いい先生と思っていました
きっと振られた彼女の姓が重松だったのではないですか
そうした下らぬ理由しか考えられません
小生も音楽大好き人間で 姉は当時 上野の師範科でピアノを習っており アルバイトで「シャンブル ノネット」というアンサンブルのメンバーになっていました
芸大を出たあと NHKで「えり子とともに」というラジオドラマの番組にこのアンサンブルがでたので 番組の中でえり子が弾くピアノは姉が弾いていました
そんな関係で芥川也寸志さんや俳優の小沢栄太郎さんなどがよく家に遊びに来ていました

ところで、「オーケストラの少女」ビデオを見られましたか?
貴兄に触発されて 小生も押入れの隅からビデオを引っ張り出し 昨夜見ました 
ディアナ ダービンがカナダ出身なので、それで見ようとされたのでしょうか
彼女もどこかの大使をされていたように覚えていますが、まだ健在でしょう 
今の日本でも小沢征爾あたりを使えば出来そうな話ですが当時ストコフスキーを使う発想はかなり、ユニークだったと思います  有名な曲をうまく使っていました
原題の「One hundred men and a girl」をオーケストラの少女にしたのは、単純ですが内容がわかる題名ですね。
この頃は、7月14日が「巴里祭」になり、PEPE LE MOKO<pepeはアクサンテギュがeの上にありますが このPCでは書けあません>が「望郷」となり、恐らく東和にいた筈見恒夫さんあたりの命名と思いますが、良い日本題名がついていました。
近頃はスターウオーズとか原題そのままの題名が多いですが良い名付け親がいなくなったのでしょうか

交響楽団が赤字なのは今も変わらず 最近も楽団が潰れる話を耳にします 戦後モチ代稼ぎにベートーベンの第9を演奏することを思いついた人がいて そのため年末になると 今でも第9のラッシュになりますが これに替わるアイディアを考える必要がありそうですね
小生N響の会員だったことがあり、かなり聞きに行きましたが、いろいろ珍事もありました
有名な太鼓の小森さんが演奏中、あのスティックというのでしょうか棒の先についている丸い団子状のものが 外れて飛んだのです しかも2回も 1回目は直ぐ横の予備のものを取って何事も無いようにしましたが、2回目はさすがに慌てて残った無事な二本を取り上げて演奏を続けましたが 会場は笑いがあちこちに残りました
これと正反対だったのは、ハイフェッツか アイザック・スターンだったか忘れましたが、演奏中ヴァイオリンの弦が切れたのです。しかもやはり2回。
1回目は残った弦で音程が狂うことも無くそのまま演奏を続けみんなその凄さに聞きほれていたとき、またビーンという音がして2本目の弦が切れたのです 一瞬どうするかと思ったら最前列のコンサートマスターのヴァイオリンをひったくるように取って、演奏を続けたのです  しかもいい音をだしてーおそらくストラデュヴァリあたりのヴァイオリンから 無名のものに変えたのに その音量は素晴らしいものでした
演奏後の拍手も凄いものでしたが、あとでN響関係の仕事をしている義兄に話を聞いたらコンサートマスターが「こんなヴァイオリンであんな凄い音が出るとは思わなかった 筆を選ばずというが 自分の腕がいかに劣るかを身に沁みて感じさせてくれた」と 言っていたそうです。

村田さんの話がいろいろ飛んで長い話になりました。
小生のCは法学でした  そして卒業後労務部に入ったお陰で一番苦手なはずの法律、中でも労働三法を勉強させられ、今もそれでコンサルの収入が得られているわけです。大学の成績が如何ににあてにならないかの見本です。小生がノートをたくさん貸してあげた奥井さんが 卒業時に成績トップで表彰されたときは、こりゃなんじゃ!と思いました。

永戸さんのフランス語は小生、高校時代に第二外国語で少し勉強していたため、授業免除、試験だけ受けてAをもらえ、2年に進むときに白井先生と二人がかりで 仏文へこいと口説かれましたが 語学で飯を食うことは全く考えていなかったので、丁重にお断りしました。そのとき初めての大学ストを指導しのちに退学させられた浅利慶太が 何の用か来ていて 浅利のストに猛烈に反発していた小生は もし浅利が仏文に行くのなら絶対に仏文お断りと思ったのを覚えています。
あの日吉のかまぼこ兵舎は暑かったけど、いい思い出ですね
三田で新聞研究室に入ってから、新聞の編集の仕事が面白くなり、かなり授業をさぼりました。慶早戦で新聞を売っては、試合のあと笠井・小野君あたりと飲みに行きました。
真面目だった貴兄に比べると、ひどいものです。
今日は貴兄の便りに刺激されて、昔話を長々と書き連ねました。
では、また。         

Tuesday, May 24, 2005

有難い18ポ(05-5-24)

いやいや、眼をこらしてPCを見詰めようと、今はそれだけが楽しみなんですから、abe-bb というアドレスを見出すのが何よりの喜びなのです。 しかも貴兄のメールは18ポイントの大活字。 有難ききわみです。
奥様は放送大学で勉強を続けておられるのですね。 私は放送大学ではないのですが、インタビュー番組を聴いたり見たりして、「カナダこのごろ」の下地としています。
テープで録ったものを、読書百遍の念仏を唱えながら、繰り返しているだけですが、2%ぐらい判ったら良しとしています。
高校で今ぐらいの心がけを備えていれば、九州大学ぐらい受験してみようかという気になったのかもしれませんが、慶應は学生に人柄のよい人が多かったのが、今思えば青春の恵みでした。
私は、大学で、一つだけCだったのが、村田武雄の音楽でした。 私は英数国漢は不得手でしたが、音楽だけは、小学1年から高3までいつも秀。 日吉の大教室での授業も休むことなく、リポートも真面目に書いたのにCとは! 卒業前の就職部の面接の時に、「君、Cが一つあるがこれは何かね」 「音楽です」 面接した教授はカラカラと笑いました。 皆さんはめがねの村田を尊敬していますが、私には慶應で唯一人のトンチキ野郎。 私の答案を扇風機で飛ばして、勝手にCとつけたんじゃないかと思っています。 
逆にフランス語でBをいただいたのも不思議。 白井先生も永戸先生も大甘採点。 しかし憧れの佐藤朔先生のクラスに出る勇気はありませんでした。
日吉で池田弥三郎先生のコースをとりましたが、受講生は私一人。 千野君が時々出たり入ったりしていましたが、あとで、池田先生が、「君が来ているといけないと思って、無理して行ったんだよ」と言っておられました。 元禄快挙録と忠臣蔵を読んで下さったのですが、4年間で一番有難く勿体ないマンツーマンの講義でした。
梢風の子息村松瑛先生の史記も受講生は私一人。 そうですね。 急に怒りを覚えたら、あの先生の顔を思い出せばよいですね。
貴兄のおかげで昭和27年代の面影が懐かしく蘇ってきます。

Monday, May 23, 2005

お手数かけました(05-5-23)

このたびは、小生のつまらぬ青春の亡霊にすっかりつき合わくせてしまい、申し訳ありませんでした。
貴兄が不自由な眼で、PCに取り組んでおられた姿を想像し申し訳ない気持ちで、一杯です。
「カナダこのごろ」も小生がくだらぬ原稿を送っているので、作業量が増えて、眼の負担になっていることと思われ、心配です。

週末頃には奥様も戻られることと思っておりますが、留守の間に眼を悪くされたのでは小生としても申し訳ないので、くれぐれも無理をなさらぬよう、少しくらい掲載等が遅れても、何も差し支えは起きないのですから、眼の保養を第一に考えて下さい。
小生、家内の眼で心配ばかりしており、3カ月毎の診察から戻ると「どうだった?」と直ぐ聞きます。なにしろ片目で生活しているのですから、もう一つの眼はダイヤより大事なのです。
本人は長年この状態なのでそれほどでもないのですが、小生にとっては大事なのです。
盲導犬の育成協会に若干の寄付を毎年していますが、これも家内の眼のためと言えるかもしれません。

今年は7,8と2ヶ月の夏休みが取れそうですから、ゆっくり眼を休ませてください。長生きしても眼が不自由だと大変です
から、なにしろ無理をしないことです。

杉葉子さんはALOHAさんの話だと、大分変わられたようですね。アメリカ人と結婚、離婚、子供を抱えて一人暮らしでは普通でも変わるでしょうね。しかも、スターだったのですから。
小生も仕事から俳優の方とかなり付き合ったことがありますが難しいものです。
貴兄の息子さんは違うでしょうが、日本の俳優は、男と女と俳優との3つに分けて考え、第三の人種だと思って付き合ってきました。そのくらい、個人の個性?が違うのです。
香川京子さんは小生、存じ上げませんが、おそらく、ALOHAさんから見たら、第三の人種に見えたのでしょう。
青春の一齣はそのまま大事に取っておく事にしましょう。

来月は井上さんの往訪でまた、忙しいでしょう。
奥様も帰宅そうそう大変ですね。
どうかお二人とも健康第一でお過ごしください。

番外記録:(上野正憲さん05-5-23)

2005-05-23重松彬様このごろお便りも日記の更新も行っていないので、気にはなっている(いた)のですが、肝心のDSLがつながらない情況がしばらく続いているうち、習慣がくずれてしまいました。3・4日つながらなかった後、今は直っているのですが、先週の管理部の遠足、そして、一昨日の会社の遠足があったりして、書かなくなっていました。また近いうちに再開したいと思います。重松さんはカナダこのごろに、カナダの近況や、いろいろな方の情報をウェブに載せてくださったりで私も楽しみに読ませて頂いています。数日はDSLがつながらなかったので、読むことができなかったので、一気に読ませて頂いています。おかげさまで、カナダの情報が入ってきているので、友人のジェイミーと話をするときにも時折そんな話もすることができて嬉しく思っています。どうも有難うございます。ケンさんは来年どこの教会へ行かれるのですか?ケンさんも理恵さんも本当に国際的に活躍されていますね。私は特に営業の経験はありませんので、どのくらい大変かわかりませんが、人相手で売り込みとなると営業はかなりストレスを伴うものだと思います。総務・管理もそれなりにストレスはありますが、遅くまで計画を練って、売り込みでも叩かれるとなるとかなり大変でしょう。それでも、それだけ大手の会社がついているとなると、やはり、信頼も人柄もすばらしいから、顧客がついてくるのでしょうね。奥様が日本ということで、ハナさん、哲郎さんも含めて、上野家同様家族がみな各拠点に分かれているということですね。やはり通信手段は電話とE-MAILでしょうか。数日間メールをしなかったからか、昨日うちからも電話がかかってきました。ちょうどホテルの野外バイキングをとりながら、フィリピンの民族舞踊と歌を聞いているときでした。そこは、ちょうど重松さんの書いてくださった西日が落ちていくのをみることができる場所で、一部雲に阻まれましたが、やはりすばらしいと思いました。これで、あとマニラ湾の水がきれいだと言うことないのですが、遠足で行ってきたスービックの水よりはずっと汚かったです。ですから、会社のもう一人の出向者は、一緒に来ていた日本からの出張者に、「水を近くで見てはいけない」とジョークを飛ばしていました。いま、そちらはお一人で悠々自適とはいきませんでしょうか。こちらも一人。多くの出向者がメイドを雇う中、私はまだなので、うちはすごい埃と汚れがあります。たまに掃除をすると一時はきれいになりますが、また汚れてしまいます。時々買出しにでたりしますが、マニラだと貨幣価値の差から、つい贅沢に外食に走ってしまいます。なので、なるべく野菜果物を食べるように心がけています。どうぞお元気でお過ごしください。               上野正憲----- Original Message -----From: "Shigematsu Akira" <shigematsuakira@hotmail.com>To: masanori.ueno@nifty.comSubject: 上野正憲様 2005-5-20Date: Fri, 20 May 2005 12:39:30 -0700Mazさまお忙しそうですね。 毎日「Mazの日記」を開くのが楽しみで、更新されていない時は、相変わらず超多忙の一日一日に取り組んでおられるのだろうなと想像しています。私の方は相変わらずです。 沢山読みたい本があるのですが、井上さんが、毎日数通コメントを送ってくださるので、それをメールマガジンに載せるのに忙しく、なかなか本まで手がまわりません。 私の目は、ますます悪化したので、大きな、太い活字の本しか読めないのですが、これも糖尿のせいでしょう。 子供の頃、キャラメルやチョコレートを食べたのが、今ごろになって、祟っています。謙は、来年、フィリッピンに行く予定だと言っていました。 説教のエンゲージメントだそうです。 今は1週間程大阪に休暇で行っています。理恵は、シリコンバレーで iT向けの経営ソフトの仕事をしています。 顧客は、インテル、HP、モトローラ、フィリップス、NEC、松下と、響きはいいのですが、売り込むのは、弁護士兼エンジニアである夫のロン1人。 日本やヨーロッパを毎月往復しています。 もしロンが病気にでもなったら、会社もそれまでです。 特に松下なんか、売り込むのに手強いでしょうね。 岩谷産業の創始者が「私の履歴書」に、書いていましたが、松下の購買担当者が理不尽な値引きを要求するので、「それなら結構です。 幸之助さんに直接会って話します」と開き直ったところ、相手が慌てて態度を変えたそうです。 マズさんも営業の経験もおありでしょうが、総務部長の苦労とどちらが大変ですか。 日本の資材係には、昔の軍隊の軍曹みたいなのがいますからね。いま家内は日本に行っています。 そういうわけで私は留守番。 その間は、健康食も冷蔵庫に眠ったままで、体操も散歩もせず、これが私のホリデーです。 掃除もお休みなので、目に見えない埃がカーペットに埋もれているはずです。マニラ湾のサンセットは美しいそうですね。 マズさんは海外雄飛型。 壮大な夕陽をみながら英気を養ってください。重松彬

番外記録:(柳谷さんへの返事05-5-23)

柳谷 Chieko 様

たいへん優雅なお招きをいただきまして、心より恐縮、感謝しております。  井上さんの方には、早速転送させていただきました。 ユーモアのセンスが香るメッセージに喜ばれることでしょう。

6月19日の日曜日の「ディナー」はまことにかたじけないご招待ですが、もし許されるものなら、午後3時前後の「お茶」にしていただけないものかと、私独りで勝手に考えているところでございます。 実はまだこのことについては、井上さんにもご相談申し上げておらず、運転手役の私の家内も月末にならないとないと東京から戻って参りませんので、私の独り合点ということになりますが、お邪魔するとすれば、井上さん、及び私ども夫婦、計3人ということで如何なものかと考えております。

私どもは、日曜日は、バンクーバーの TENTH AVENUE CHURCH で、午後1時45分頃までキッチンの手伝いをし、それから Coquitlam まで小1時間ほどかかるのではないかと胸算用しております。  「お茶」の時間については、柳谷様や井上さんのご都合もあることですから、あらためてご意向をお聞かせいただきたいと願っております。

絵心のある嫁の早基子は、かねてから柳谷様の御宅にお伺いしてみたいと申しておりましたので、高石からバンクーバーに戻り次第、柳谷様の有難いお招きを伝えておきます。 きっと喜ぶことでしょう。 しかし、ホストのお話とおもてなしを楽しませていただくには、大勢で一度に押しかけるよりも、もし柳谷様のしお許しがいただけるならば、集まりの焦点を合わせやすい小人数の方がよろしいのではないかと愚考する次第です。

日曜画家の弟和の意向もまだ聞いておりませんが、SHY な方ですから、どうでしょうか。 兄弟とも人生の落ちこぼれ組で、年を取るほどに退嬰的になり、「来客なし、来信なし、電話なし」の世捨て人の境遇を楽しんでおります。 柳谷様のことは、「カナダこのごろ」でよく承知しているはずですから、有難いお気持を伝えておきます。

有難うございました。

重松彬 拝

番外記録:(井上 柳谷 05-5-23)

井上出様
柳谷さんから、次のようなメールをいただきました。 ご一考いただければ幸いです。  
ところで、6月18日、19日のお宿はどちらでしょうか? サレーのシェラトンかベイショア・イン? もし土曜日ベイショア・インにお泊まりでしたら、私が日曜の朝ホテルに参上して、タクシーで TENTH AVENUE CHURCH までご案内いたします。 サービスは11時15分から1時間半ほど。 割に若者向けのミュージックが使われます。 その後会衆の皆さんに簡単な茶菓を出すのが私どもの役目でして、その片付けが終わって解放されるのが、午後1時45分ごろになります。 
それから家内の運転する車で、コクィットラムまで小1時間。 ディナーよりは、3時前後の「お茶」ということでは如何なものかと、これは私1人だけの勝手な考えですが、愚考しております。 押しかけるのも、大勢でなく、井上さんと我々夫婦の3人だけということにした方が、ホスト、ゲストのお話を伺うのにも落ち着けるのではないかと思います。
そして2時間ほどで辞し、もし井上さんのホテルがベイショア・インであれば、バンクーバーのダウンタウンで食事・・・という風に勝手に考えているところです。
家内もまだ東京。 嫁の早基子は大阪の実家。 2人とも月末に帰って参ります。 早基子は絵心があるので、かねてから柳谷さんの所に伺ってみたいと申しておりましたが、これはまた別な機会にお邪魔すればよいのではないかと思います。
重松彬
= = = = = = = = = =
(柳谷さんより)
 重松様 これはどうぞ「カナダこのごろ」にはおのせにならないでくださいませ。笑
 それでは日曜日午後五時ごろからお夕食ということでいかがでしょうか。こちらの五時はまだ日が高く、私自慢の花たちにともお会いいただけると思います。晴れれば外で、雨だと部屋の中でということにいたしましょう。
 もし、重松様のご都合がお悪るければ、月曜の夕方、火曜の夕刻も私は大丈夫です。勿論、井上様のご都合が合えばですけれど。すでに学校は夏休みに入りかけ、私の生徒たちは、次々と母国に帰国する時期となりますので、私には時間がございます。
 なお、井上様のご友人、重松様の奥様、息子様、素敵な絵を描かれる弟様、息子様の奥様など、十人くらいまでは大丈夫ですのでお越しいただいてくださいませ。皆さんでカナダライフを語り合えるのを楽しみにいたしております。
 それと、皆様のお好みのものもお知らせいただけると嬉しいです。なお、これが一番大切なことですが、お嫌いのもの、食べられないもの、アレルギーなど、お尋ねいただきたいです。
 なお、生徒に絵など教えております関係で、いいわけですがとても汚くいたしております。リビングがアトリエ兼用ですので。その上、私もカナダのおいしいものを食べ過ぎて、カナディアンより丸々と太っております。日本的な楚々とした美人ではなく、ただの大阪のオバタリアンですので、皆様のご期待を、裏切ること間違いございません。
 お料理も、そのとき手に入るものが不明ですし、もともと習ったことも無いわがままChiekoスタイル風でございますので、お口に合いますかどうか・・・。
 では、お会いするのを楽しみにいたしております。 井上様にもご転送よろしくお願いいたします。
 なお、私の自宅の住所と電話番号をお知らせしておきます。 2967 Cliffrose Crescent Coquitlam B.C.Canada V3E 2T2 604-945-5945 自宅 604-762-0341 セルラー
"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""Love from ChiekoYanagitani in GreaterVancouver   cyanagitani@shaw.ca   cyanagitani@hotmail.comURL http://www.cyanagitani.comURL http://www.cyanagitani.com/B&BCliffrosetop.htm

ALOHA163(05-5-23)

1行だけのメッセージですが・・・。
= = = = = = = = = = = = = = =
阿部 様
何だか非常に良い事をした気持に成りました。
ALOHA 
= = = = = = = = = = = = = = =
「ALOHA163」 は 「アロハいちろうさん」 と読みます。

Sunday, May 22, 2005

メッセージ転送しました(05-5-22)

「ALOHAさんへ」のメッセージ、転送しておきました。 彼、まだ東京にいるのではないかと思いますが、Eメールだと、世界中どこにいても、アカウントを開きさえすればいいのですから、重宝しています。
前にも申し上げたかもしれませんが、息子の哲郎の行方をCBCが捜した時、プロデューサーが闇夜に鉄砲式に、「Where are you, Tetsuro?」と発信したところ、それをLAかハリファックスで本人が読んで連絡がとれたという次第です。 
ALOHA163は、1年前、東京の癌研で前立腺の手術をしたのですが、「男の勲章ってやつで」とそらとぼけていました。 しかし家族は心配だったでしょう。 彼はカナダの医者を信用していないので日本で手術したのですが、、私は反対。 カナダの医者も看護婦も、私どもが経験した限りでは、実に親切。 それに機嫌がよいのが嬉しい。 40年前に経験した聖路加とは比べものにならないというのが家内の実感です。 しかし、それは日野原先生が聖路加の院長学長になる前のこと。 今はどうか判りません。 昔慶應病院のインターンで威張ったのがいました。 1人の例をとらえて、「慶應病院は」とか「日本の医者は」とか恨み言を並べるのは間違いだとは判っているのですが、しょう人の愚かさでつい・・・。
ALOHAさん、追記として次のように書いてきました。
= = = = = = = = = =
ご友人には青春時代の淡き憧れと夢?を大事に保たれて置かれた方が宜しいとお伝えくだされ。
要は相手があの活動の青い山脈のぴちぴちした清純さのサッパリした彼女ではなくなっておる訳で・・・あの頃は小生も大フアンでありました。香川京子さんも同じく。 生意気盛りで不良でしたので・・・
* * * * * * * * * *
香川京子さんなんか美しく年老いていると思いますがねえ。 普通の人は老醜を免れないのが常ですが、こればかりは神の摂理。 私の眼も、老醜の矛先が先ず網膜にきたのかなと、観念しています。

Re: 杉葉子さんのこと(05-5-22)

アキラドノ
ご友人には青春時代の淡き憧れと夢?を大事に保たれて置かれた方が宜しいとお伝えくだされ。
私は昔よき町で今はスラム化して仕舞ったと聞いたら想い出を壊したくなく決して再訪しません。少し例えが悪いかな。 要は相手が婆になってあの活動の青い山脈のぴちぴちした清純さのサッパリした彼女ではなくなっておる訳で・・・あの頃は小生も大フアンでありました。香川京子さんも同じく。 生意気盛りで不良でしたので・・・
Aloha

ALOHAさんへ(05-5-22)

ALOHAさんへ
メールを拝見、びっくりしました。
小生のメールを杉葉子さんに見せていただけるとのこと。
どういうコネか分りませんが、世の中こんなに狭くなったのですね。
それにしても、杉さんは勿論 こんな小さなことは覚えていらっしゃらないと思いますが、小生にとっては青春の一こまが突然、50数年ぶりによみがえった話で胸のときめきすら感じます
あの新宿駅南口からの坂道を 杉さんがかつかつと足音も高く快活に下りてこられたのを 昨日のように思い出します
青春とはこういうものだったということを つくづく思います
ALOHAさん 本当に有難うございます
そして こんな機会を作ってくれた「カナダこのごろ」の欄にもお礼を言います  有難うございました                            

Saturday, May 21, 2005

いろいろ有難うございます(05-5-21)

いろいろ情報を有難うございます。ブログのことではお手数をかけます。有難うございます。

まず、大映の件ですが、1948年製作の吉村廉監督「時の貞操」に間違いありません。原節子が前後編で当時100万円のギャラをもらった作品です。サラリーマンなら何十年分の年収でしょうか。気の遠くなる金額ですが、原節子の人気を偲ばせます。
話の筋も貴兄の記憶どうり、若原雅夫も出ています。凄い記憶力に感服しました。
三橋達也は別の映画で来ていたのだと思います。この作品には出ていません。昨年、亡くなりましたが、ちょっと渋いいい役者でしたね。
大映は、小生も中学時代の同級生に中代という三益愛子のハハもののプロデューサーを父親にもつ男がいた関係でよく行きました。大学に行ってからもこの縁故でよく行きました。
一番の思い出は、美空ひばりとマーガレット・オブライエンが競演した「二人の瞳」のスタジオに入れたことで、二人の姿を遠景で写真にも撮った覚えがあります。1952年の作品ですが、監督も覚えていません。
昔のアルバムを引っ張り出せば、この写真があるはずです。

杉葉子さんのことは、彼女が小生のメールを読んでくれるかもしれないとうかがい、びっくり、わくわくです。
ALOHAさんがどういうルートでやられているのか判りませんが迷惑にならない程度にして頂くよう、よろしくお伝えください。
貴兄がサンフランシスコに行かれるのなら、小生、杉さんに逢いにLOSへ行きましょうか? と、ここまでくるとストーカーに間違えられそう。
でも、50数年前の青春がこんな形で戻ってくることもあるのですね。我ながら、意外な展開に驚いています。

本の出版の代理店のこと、東京に「アップルシード・エージェンシー」という会社があり、本の企画書か原稿を送ると、出版社に当たってくれるのです。採用されれば、印税の一部を手数料の形で支払えばいいので、小生のような無名の者には助かるシステムですが、余程良いか、関心を持たれる話でないと出版社が乗ってくれないのが、現状。小生も金嬉老の本を韓国で出したらと勧められ、任せたことがありましたが、駄目でした。
こうした、海外での出版も扱うようです。
では、また。 

リテラリー・エージェント(05-5-21)

貴兄の名が、紳士録に掲載されていたのですか。 それはたいしたものです。 何万人に1人でしょう。 それも大会社の役付きで、自動的に載ったり外されたりするのと違い、放送作家、脚本家、コンサルタントとしての存在ですから、勤め先の肩書きだけが頼りの高級サラリーマンとはわけが違います。
プロテスタントのキリスト教で、よいと思うのは、神と自分の間に、係長も社長も存在せず、祈りを通じて、直接神と接することができるということです。 私は定年退職した時、ハイエラルキーから解放されて、身軽になったことを本当に喜びました。 収入は半分か3分の1に減りましたが、出費もかからなくなり、暮らしも楽になったような気がします。 「すまじきものは宮仕え」と言いますから、平安時代にも、似たような思いをした下級属僚がいたのでしょう。
さて、以前、著者と出版社の間をとりもつ代理店が日本にも一社あるということをお教えいただいたとのことですが、はて、どんなことだったかなあと、自分の記憶の衰退を嘆いているところです。
ラジオ評論家の山田耕嗣さんに訊いてみたところ、「日本には、リテラリー・エージェントというものはなく、出版社の編集部がその役割に相等するだろう」との返事でした。
こちらでは、リテラリー・エージェントが花盛りで、本屋のレファレンスブックの棚をみても、英語作品を取り扱うリテラリー・エージェントのディレクトリーが何冊も並んでいます。 辞書か中都市の電話帳なみの厚さの本ですが、北米のみならず、英語圏全体のエージェントをカバーしているのでしょう。 作家志望にとっては最も大事なインフォメーションです。
演劇関係専門のリテラリー・エージェントもあります。 脚本家の書いた戯曲を、劇団に紹介して、コミッションをとるのでしょうか。
「ハリー・ポッター」を書いたJKロウリングも、出版社に相手にされず、1人のリテラリー・エージェントが読んでくれて、その価値を発見してくれたそうですね。 その人が、「女性が書いたことが判らないように」と、名前もイニシャルだけの「JKロウリング」にし、出版社を説得し、世に出したそうです。 現代の英国でもセクシズムが存在するとは意外ですが、私もセクシスト。 こうした真摯な男性リテラリー・エージェントに比べて、原稿を足蹴する日本の「下読み嬢」のおふざけにはひそかに憤慨するのです。
日本の「ハリー・ポッター」の訳者は亡夫の遺した出版社の社長だそうですが、イギリスで「この本を翻訳して出せばビルが建つ」と言われて、飛びついたそうですね。 エージェントが無名の作家の原稿を読んで宝を見出すのと違い、商業的成功が約束されたものを持ってきて手柄にするところが、「やっぱりね」ろいう感じがします。
私が輸入機械を売っていた頃、機械の性能や価格よりも、「誰が買った? 何処に納めた?」ということが、日本の顧客の関心事でした。 出版社も訳者も、オリジナルな著者の知名度と、海外で何部ベストセラーになったかという確証が欲しいのは判ります。 ですが、デービッド・ハルバースタムのような、1950年代のベトナムで修羅場を踏んだ作家の”THE FIFTIES"が評判になると、すぐ日本でも女性による翻訳が出たようですね。 女性ではいけないのかと言われればグーの音も出ませんが、できれば1950年代を知っている日本人男子の手を煩わせたかったですね。 これも私のセクシズムと自認せざるを得ませんが。 
出版王国日本で、リテラリー・エージェントのサービスが無いというのは、不思議です。 先ほどの山田さんが言っていましたが、出版社の社長と一緒に海外旅行をすると、見物よりも先に、「東販の部長にお土産を買わなければ」と奔走するそうです。 出版社の社長が恐れるのは「泣く子も黙る取次店の幹部」。 日本独特の現象でしょうね。 

撮影の思い違い (2005-5-21)

よく調べられましたね。 あれは昭和20年代の前半。 それでは、原節子と三橋達也は別々の映画だったのを、私が混同したのでしょう。
原節子の映画だと私が思いこんだセットは、都会のビルの林立する様子が、手描きの映画館の看板みたいなタッチで描かれていました。 それも、白、黒、灰色のモノクローム。 当時は、「総天然色」なんてまだ邦画には無かったのでしょう。 鹿児島へ帰った後で、その映画をみたのですが、原節子が、女工だったか何か、苦しい境遇の役で、上役(若原雅夫とかいう俳優がいましたか? シャルル・ボワイエに似た・・・)の子を孕む。 画面では若原(?)が車の中でそっと原の手を握って微笑む。 それだけの場面でしたが、その後で赤ん坊が泣いているシーンがあったように思います。 60年近く昔のことですから、私の印象も当てになりませんが。
三橋達也は、その時休憩だったのでしょう。 セットにいた女性の後にまわって、イタズラっぽく、エプロンの紐をそっとはずしていました。 それだけしか覚えていません。
それよりも、淡い日差しのもと、多摩川の渡しを、ゆっくり向こう岸に向かった情景。 なにか笠智衆でも船べりに坐っていたような、そんな錯覚を感じる、うららかなひと時でした。 その頃のことを思うと、私もまだ十代半ば。 今ほど悪や汚れにまみれていなかったのですから、そんなことだけを思い出していれば、精神科医の厄介になることもないのですが。
私は、心理学を学ばなかったことを後悔しているのですが、心理学の通説によれば、 年をとると、過去の記憶も、不愉快なことは淘汰され、楽しい思い出だけが残ると聞きました。 本当でしょうか。 私の場合は不愉快な思いが圧倒的なので、心理学者や精神科医のところに通ってみたのですが、効果はありませんでした。 相変わらず、汚れた心の沼からメタンガスがブクブク噴き出しています。
不愉快な思い出は、こちらの感情や思考に関係なく、イメージが一瞬いきなり飛びこんでくるのです。 一方、楽しい思い出は、努めて探ってみなければなりません。 そうすれば、結構数多くの幸せだった時の思い出があるのですが、多摩川を舟で渡って東京の土を踏んだのも、その一つなのです。

柳谷さんのコメント (05-5-21)

「イノさんシゲさん」のブログに、今朝、次のようなコメントが送られてきていることに気づきました。
= = = = = = = = = = = == = =
映画浸りの生活 (Chieko Yanagitani) 2005-05-21 12:23:24
実は読者ラウンジに投稿させていただいてから後、カナダこのごろが、一通も配信されなくなりましたので、おかしいとURLを覗かせていただいています。私のコメントにご批判もいただいていることも存じませんでした。私も老後は 映画浸りの生活をと思っていましたので、図らずも同じお考えのかだもいらっしゃったのだと面白く読ませていただきました。しかし、いつ、老後かと聞かれそうで、これはまた、怖いですね。働かなければならない現状では、なかなか、集めたビデオをゆっくり見る暇もありません。しかし、これからは少し努力して老後を満喫することにいたします。

杉葉子さんのこと (05-5-21)

今日、コンピューターに、次のようなメッセージが入っていました。 ALOHA さんが、杉葉子さんと個人的に知り合いなのか、また、どうやって、貴兄の文章が杉さんの目にふれるようにするのか、判りません。 まあ、一応、彼のなすままにしておいたらどうでしょう。
重松彬
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阿部基治殿
大兄の過日の杉葉子さんの思い出のメールは今月末または来月早々ご本人が読まれる事と存じます。
ALOHA
* * * * *
(小生宛て)
明後日癌研にて術後一年の検査を受け24日戻ります。
過日杉葉子さんの件ローマ字にてのご連絡失敬致しました。あのPCは日本語で受信可能なのですが日本語にての発信が出来ませんでした。PCに詳しい方なら何とかなったのかも知れませんが小生コノ手の奴に弱いので・・・
杉葉子さんはご連絡せる通り目下LAの郊外に住んで居られますが(米国人と結婚後離婚目下一人暮らし。男の子が居り近所に住んで居ります。)彼女は上海育ちで父親は大蔵省で上海の税関長を勤め敗戦で引き揚げて来た。
以上です。小生数日前中東より戻りました。
では叉 Aloha ! 

早速拝見しました (05-5-21)

ブログを始められたとのこと。小生との紙面を拝見させて頂きました。
世の中の進歩に追いつくのも大変ですね、本を書くのも大変ですが、貴兄の言うように出版するのも大変なのが現状です。
活字は残っても、本を売るのは小生のように知名度のない者にとっては難しく、いくら紳士録に載っていてもそれとこれは別問題。かなり、いじめられた条件でしか本は出せません。
この次にいつ出せるか見当もつきません。
本の企画の段階で出版社を探してくれる代理店が一社あることは以前お伝えしましたが、いくらその代理店が宣伝しても出版社が振り向いてくれなければ、条件は変わりません。
あほなタレントが皆本を出すのを見ていると、台本の漢字に全部振り仮名をふってやった放送作家時代を思い出します。

ところで、貴兄が大映の撮影所に行かれたのをお聞きし、原節子と三橋達也の接点を探したのですが、なかなか見つかりません。原の大映東京作品は1948年の「時の貞操」と1950年の「白雪先生と子供たち」の2作品しかなく、三橋は48年東映大泉に入り、1952年大映で「安宅家の人々」「群狼の街」に
出ていますが、原さんの作品にでていないのです。
原さんに逢えなかったとのお話でしたので、もしかすると別々の作品かもしれません。

今年はアメリカの娘さんの所にいかれるとのこと、いいじゃないですか、大いにアメリカの実態を見てきてください。もし、LOSまで足を延ばせたら、杉葉子にも逢えるかもしれませんよ。
LOSは一昨年20年ぶりに行ったらものすごくひどく変わっていて、唖然としました。サンフランシスコも20年以上前に行きましたが、きっと変わっているでしょうね。
夏にあちこち出かけられるのもあと少しなのでしょう。イングリッシュベイを見るマンションあたりに移ったらますます出かけられないでしょうから、是非出かけてください。
堂々と、夏休みを宣告して!おでかけください。
小生は家内の病気次第ですが、やはり思っていてもなかなか言い出せず、トルコ、ロシア、ギリシャとパンフを見ながらみんなあきらめました。

最近は達観したというか、あきらめが先走り、口に出すことが少なくなりました。一日中何も話さない日が多くなり、ただ押し黙って仕事をしています。もう4年も看病していると、いつこの病気が治ってくれるのかわからなくなリます。
医者は気長にといいますが、必ず治ると言われても小生の持ち時間がどんどん減るので、達観するよりほかに方法がありません。夏は混むので小生はここに蟄居します。

最近、くしゃみと鼻水がひどく、どうやら花粉症のようです。ここは近くに森があるので、杉を含め花粉の宝庫ですから、致しかたありません。
明日の日曜は小生はまた、フィットネスです。今日は私信のみです。

Friday, May 20, 2005

ブログについて (05-5-20)

たしかに最近のバンクーバーは、季節はずれの寒さです。 11度か12度ですから。 しかし躑躅もいつの間にか色が消え、時は確実に流れています。
本を書くのはたいへんでしょうが、それ以上にたいへんなのは、出版社や編集者との交渉ではないのですか。
編集者の中には、「原稿を読んでもらいたければ、菓子折りぐらい持ってこい」とうそぶく者もいるそうですが、「下読み嬢の手記」という文章を読むと、マンションに届けられたダンボールの箱を、下読み嬢は足で動かし、執筆者が血と汗で書いた原稿を数ページ読んで、「落第」と判定して終わり。 そういうことで食べている人もいるのですね。 
それなら自分で出版社をやったらと、机と電話を用意するのはいいが、東販にアカウントをもつには3000万円納めなければならなそうですね。 それでも何千という出版社があるところをみると、採算がとれるのでしょうかね。
カナダの作家志望の人も、同じような屈辱と憤怒を味わうそうです。 原稿を送った小包も、封も開けないで、そのまま送り返してくるそうです。 日本の出版社の中には、返さない所もあるそうですから、返すだけまだ良心的なのでしょう。
そこで、そういう出版社や編集者を排除できるブログが、世界中で爆発的に拡がっているそうです。 3秒に一つの割合でブログが生まれているようですが、兎に角つくるのは簡単。 私でも出来ました。
私も 「イノさんとシゲさん」 というブログを始めたのですが、井上さんから届くメールは全部そこに掲載しています。 アドレスは: http://blog.goo.ne.jp/inosanshigesan/ です。 
もう一つ、貴兄と私の交信もブログにレコードしています。 これはプライベートで、英語のフレームを使っているので、他人にのぞかれることはありません。 名前も伏せてあります。そのアドレスは次の通りです。   http://shigematsuakira.blogspot.com/
ブログは、グーテンベルグの印刷機の発明以来の画期的なことだと言われていますが、それはどうか別として、新聞や雑誌は影が薄くなっているそうです。 しかしテレビが登場してもラジオが消えなかったように、プリントメディアは根強く生き残ることでしょう。

Thursday, May 19, 2005

近況 (05-5-19)

連絡が途絶えて申し訳ありません。 貴兄の映画の話題は、フルに使わせてもらっていますが、井上さん柳谷さんだけでなく、他の読者にも喜ばれていると思います。 永年の間に仕込んだ銀幕の回想ですが、貴兄の思い出は、普通の人とボリュームが違います。 しかも、たくさんのビデオのアーカイブに囲まれているとは、羨ましい限りです。
DVDは、1年半前のクリスマスに、子供が呉れたのですが、テレビの上に鎮座したまま、使用法を忘れてしまい、無用の長物に終わっています。 もう少し積極的にエンターテインメントにも真摯な態度で接しないと、老化が促進されてしまうので、自戒の要ありなのですが、1人留守番だと、コンピューターのモニターとテレビジョンのスクリーンを見詰めるばかりで、ますま退嬰的ライフスタイルになってしまいます。
5年ほど前、ビデオのカメラを買ったのですが、他のソニー製品同様、間もなく調子がおかしくなり、それ以来、どこに仕舞ったか、行方が知れなくなってしまいました。
数日前、若い台湾出身の友人が、「1人でテレビをみるより、一緒の方が面白いよ。 今夜は、イチローと松井と台湾のピッチャー、ウォングが出るから、是非うちでみよう」と半ば強制的に連れ出されました。 行ってみると、縦1メートル余り、横2メートル強のスクリーン。 音も映画館なみの迫力でした。 しかし、残念ながら、私の目には、巨大なピンボケで、豚に真珠、勿体ないなあと思いながら、ソファーにもたれていました。
7月はサンフランシスコに行き、8月はモントリオール。 帰ってくるのは9月初旬の予定ですが、その間は「カナダこのごろ」も休ませてもらいます。 今までは8月だけ1ヶ月の休みだったのですが、今年はサンフランシスコにいる娘のたっての勧めに「ノー」と言いそびれたのが失敗。 病欠というわけにいかないかなと思案中です。

Wednesday, May 18, 2005

VHS/DVDの話 (05-5-17)

新聞で気温を見ていると、ヴァンクーヴァーの温度はあまり高くありませんが、やや寒いですか? 来月は井上氏が行かれるようで貴兄も忙しいですね。
小生がお邪魔し、また井上氏では奥様も大変だと思います。

ところで、貴兄はヴィデオのデッキは何をお使いですか? やはり、VHSですか? 実は、小生はVHS,ベータ、8ミリと3機種使っています。 最初ソニーを信用してベータを買い、録音時間からVHSを購入、最後は収納スペースから8ミリを買ってしまい、今は8ミリだけしか録画には使っていません。しかし、見るときは3機種使い分けということになります。

これと似たことが、また日本では起きています。 DVDで、東芝陣営がHDのほうが技術が優れているとしてソニー、松下陣営のBDとの規格統一を蹴ることを、決めたようなのです。 勿論、両機種とも売っています。 どちらが技術的に優れているのか素人にはわかりませんが画質も良く、1枚で多数の映画が録画できるDVDは、大衆には、関心があるのですが、以前のVHSとベータで散々泣かされた消費者のことは、二の次のようです。 カナダはどちらを採用していますか?2種類とも発売されていますか?

小生、前のことで懲りていますからDVDを買うつもりは全くありません。特に、ソニーは印象が良くありません。DVDにVHSからダビングすることもできるそうですが、そんな面倒なことはしたくないし、ベータはダビング出来ないみたいだし、第一、DVDを買うお金もありません。

こんな消費者の声は、メーカーには全く届かないのでしょうね。自分の会社さえ良ければ、という態度がみえみえです。アメリカの映画会社の動向が今後の規格統一の鍵になると言われていますが、アメリカの映画のソフトの供給次第とはなんとも情けない話です。

確かに、ヴィデオは劣化するのか20年も前のものを見ていると画質が良くありませんが、見れないわけではないので、DVD戦争は高みの見物といきます。

車でもこうした問題はあるわけで、A社の部品がB社の車には合わないわけですが、同じガソリンで走ることには変わりはなく、せめて同じソフトを使って異なる機械で録画、再生すること位、出来ないものでしょうか。

このところ家内の調子がよくなく、看病で殆ど家にいたのでメールをかなり打てましたが、やっと家内も回復したので、少し表に出かけます。また、折をみてメールします。

Monday, May 16, 2005

感謝(05-5-16)

ALOHAさんへ お礼を言ってください。

杉葉子さんは 新宿高校へ行ったことなど 忘れているでしょうが、小生にとってはあの一瞬は青春のシンボルなのです。

やはり、ロスにお住まいのご様子、 小生、ロスでヒルトンに泊まったときに、わくわくしながらフロントの近くをうろうろしたのですが、杉さんのお姿を拝見できず、がっかりしたことを覚えています。

もし、ALOHAさんが杉さんに逢うようなことがあれば、必ず、貴女の昔のファンがこうして 青春を懐かしんでいることを 伝えて下さい。

「青い山脈」 の主題歌は 大ヒットしましたが、あの主題歌に 2曲あったのをご存知ですか? 服部良一先生は 2曲作曲し、それから 今の曲が選ばれたのです。 小生、もう1曲の方も聞きましたが、素人でも今のほうが明るくて良いです。
貴兄に珍しいものを持っていったときに この曲のテープも入れるべきでしたね。

今井監督は 最後まで 主題歌をを入れることに反対し、藤本プロデューサーが、これを入れないのなら映画を封切りしない と言って、無理やり、入れさせたとのことですが、結果は あの大ヒット、 最後は たまたま銀座に飲みに出た今井監督が ばったり服部良一氏と会い、 「お前、俺の曲を断るとはたいした者だ」と 服部氏に言われ、今井監督 大恐縮、そのあと二人で 大いに飲んで、肝胆相いてらしたそうです。 ある映画評論家が語っていましたから、事実だと思います。

映画の主題歌、音楽は、非常に重要だと 小生、常づね思っており、たとえば、「男はつらいよ」シリーズがあそこまでヒットしたのは、山本良純の主題歌が覚えやすく、歌詞も良かったせいだと思っています。

愛染かつら から 現在まで、映画の主題歌でヒットした曲は数多くありますが、この点では 外国映画のほうが 世界的に大ヒットを飛ばしており、日本は とてもかないません。

「会議は踊る」 「巴里の屋根の下」 「巴里祭」から、「旅情」 「慕情」などそして 「サウンド・オブ・ミュッジック」 「ウエストサイド物語」など、ハリウッドミュージカルの作品には、とても敵いまん。

小生、アメリカは 余り好きな国ではないのですが、ミュージカルだけはたいしたものだと、感心しています。 ブロードウェイに一度本場ものを見に、聞きに行きたいのですが、機会がありません。 日本で見たのは、「ハロー・ドーリー」と 「ウエストサイド」 の二作品だけですが、歌手の声量のすごいのに驚き、場面転換の見事さ、速さ、に仰天しました。
映画の話題はファンにとっては 一晩中話しても終わらない話で、100インチの画面で 2500巻のビデオを見られてる 柳谷さんの お便りを拝見すると、小生などとてもかないませんから、この辺で 他の方に 話題を譲ります

今日は私信(05-5-15)

日曜日は、教会に行かれましたか? 恐らく、息子さんが迎えにこられたことと思います。
ヴォランティア活動も きちんとできるのが良いですね。

小生、以前、文化の後継者を作るのも大切かと、作詞教室を無料でやったことがあります。
高校生まできましたが、無料と知って 一番常識外の行動を起こしたのは、親でした。
ただなのだから、と懸賞に応募する作品を 手直ししてくれだの嫌な想いをしました。

うつ病についての番組みが NHKであり、やはり 「うつは家庭を破壊する」 と警告していました。 うつ病患者にまともに対抗すると 介護者が参るので、同病者の友の会みたいなところで相談するとか、気分転換するとか しないと 駄目になる、とのこと。

小生の逃避旅旅行は 教えてもらったわけではありませんが、理にかなった方法のようです。
ここでは 友の会がどこにあるかもわからず、自分しか頼れませんから、時々は旅で逃げます。ひどい仕打ちのように見えますが、起きて普通に動けるときに、こちらが逃げ出さないと 精神的にも、肉体的にもへばりそうです。

それでも、ほとんど寝たきりが多かった以前に比べると、良い時には放送大学の勉強ができるようになっただけでも 回復してきたなと 感じます。 全快までは まだ時間がかかると思いますが、この病気は 薄皮をはぐように直っていくようなので、辛抱しかありません。

ここへきたときに 転居通知を出さなかったので、最近は手紙や電話もなく、来客は ここへきてから 皆無です。
貴兄とメールを交換できるのが、楽しみの一つになってきました 近くの友人でなく、海外の友のほうが親しくなれるというのも、科学のお陰でしょうか。

仕事で都心に出るのが、月に三、四回、 そのときに友人にまとめて会ったりして、あとは まさに隠居生活です。

それでも、原稿書きのときは 夢中になって何時間もワープロを叩いていますからこれで良し、としています。

「カナダこのごろ」 はなるべく、政治、宗教の話題を避けるべく留意していますが、まったく触れないのも不自然かと思い、適当に書いている部分があります。 ご容赦ください。

映画の話は 書き出したら止まらないので、もう一回位書いて 別の話題に 切り替えます。

でも、これが 700人の人に読まれているとすると、凄いことですよ! 1千冊の本を売るのに四苦八苦している小生にとっては 毎回これだけの読者がいることは 大変なことです。
貴兄のお陰で載せて頂き、感謝しております。

旅は 来月15日から 5日間です。 マレーシアまで 7時間くらいですから、ヴァンクーヴァーと余り変わりません。
一緒に行くのは 旅で知り合った人で、元商社マンですが、何故か日本に帰ってきてからも 付き合いが続き、毎月 何回か会うようになったのです。 小生より、少し年下ですが、話が合うので つづいています。

それでは、今日はこの辺で

Sunday, May 15, 2005

杉葉子さんの消息(05-5-15)

「カナダこのごろ」を読んでいる読者から阿部さん宛てのメッセージが入りました。
ABE DONO
SUGI YOUKO-SAN WA LOS ANGELES NO KOOGAI NO "PALOS VENDE" NI SUNDE ORAREMASU   GOSANKOU MADE
Regret ,can not send in Japanese by this PC   ALOHA
このALOHAさん、いつもは日本語で書いてくるのですが、今日はどういうわけか、コンピューターの具合が悪いようで。 彼は昭和33年政治科卒ですが、幼稚舎から上がってきた人。 豪傑のくせに、名前や経歴を明らかにするのがSHYだと言うのです。

Saturday, May 14, 2005

映画の話(続き) (05-5-14)

一人暮らしを満喫しておられるご様子、何よりです。

葬祭は予告無しに来るので、義理を欠かない程度には行かねばならないのは 困りますが、女性は 80でも 早死にの世の中になったのですね。

石原都知事が オバサンを公害呼ばわりして問題になったことがありましたが、無生産の男は それ以下なのでしょうか。

アングラ芝居は 小生も 二、三回見ました。 舞台と観客が一体になっているのが特徴ですが、小生は 馴染めませんでした。

「未完成交響楽」の原題は、Leise flehen meine Liederです。 監督、ウィリー・フォルスト、主演マルタ・エゲルト、ハンス・ヤーライ。 1933年のドイツ・オーストリアの共同制作作品です、 ビデオがあるといいですね。

1930年代は、ヨーロッパ映画の全盛時代ですが、「制服の処女」「間諜Ⅹ27」「会議は踊る」「三文オぺラ」「未完成交響楽」などで気を吐いたドイツ映画も、結局、フランスのルネ・クレール、ジャン・ルノアール、ジャック・フェーデ、ジュリアン・デュビビエの 4名監督に 圧倒された時代でしたね。

思い出しても、「巴里の屋根の下」に始まって「ル・ミリオン」「巴里祭」「女だけの都」「外人部隊」「我等の仲間」「望郷」「舞踏会の手帳」「大いなる幻影」「旅路の果て」と、すさまじい作品ばかり。これにレオニード・モギー、マルセル・カルネ等が加わり、「にんじん」 40年代ですが 「天井桟敷の人々」などがあるのですから、まさにフランス映画の黄金期といえます。 貴兄もかなり見られたでしょう。

小生、また ビデオで 見直したいと思っていますが、自分のライブラリーにないとレンタル屋ではこうした作品は ほとんど置いてありません。

「外人部隊」 は 先日 イラクで拉致された日本人で、また名前が出てきましたが、まさか、まだ外人部隊が存続しているとは、夢にも思いませんでした。 外人の生命で自国を守らせるという発想は いかにもフランス的ですね。 個人主義の究極の形なのでしょうか、 日本人には理解しにくいですね。

そういえば、ヴァチカンもスイス兵が昔から護衛兵です。 出稼ぎの感覚で兵隊になる人が多いということでしょう。

アメリカ映画の 「モロッコ 」も外人部隊の話でしたが、ゲイリー・クーパーの二枚目兵士と ディトリッヒの酒場の歌手の恋物語は明るすぎて、好きになれませんでした。 ただ、ディトリッヒが 裸足になって 部隊を追っていく ラストシーンだけが 妙に印象に残っています。

日本映画が世界で脚光を浴びたのは黒澤明の「羅生門」からでしょう。 「七人の侍」 「用心棒」 などで、世界のクロサワになりましたが、小津安二郎、木下恵介、今井正、市川昆など、良い監督は沢山いました。

最近は 「Sall we dannce?」 が ハリウッドでリメイクされて 今 日本でも 公開されていますが、周防正行の 元作品のほうが 余程良いとのことで、リチャード・ギアの完敗のようです。 小生も 予告編を見たら 話の設定から 全く同じで、これでは 見に行く気にもなりません。

でも、黒沢、小津のような スケールの大きな作品は影をひそめてしまったので、さびしい限りです。

小生が期待し、応援している監督は、山田洋次、北野武の二人くらい、 山田監督は年齢的に多くを望めず、北野天才監督に頼らざるを得ないでしょう。 彼の作品には 他人にない 凄いひらめきを感じます。 次作は 暴力抜き だそうですから、また、新しいものを 出してくるのでしょう。 楽しみです。

またまた、古い話になりました。 杉葉子さんは 以前、ロスのヒルトンホテルの宣伝部長みたいな仕事をされていると聞きましたが、きっとロス近辺で ご壮健のことと思います。 まだ70半ばのはずですから。

カナダの映画は 日本にほとんど輸入されていないのではないかと思います。良いものを 一度 是非見たいものです。 もし、カナダの 良い映画を見られていたら、教えてください。 カナダ観光局あたりに照会してみます。

一人暮らしも あと1週間くらいですか。 小生は 看病に疲れ果て、来月、マレーシアのランクアイというリゾートに友人と行くことにしました。 5日間で 29,800円と、信じられない値段です。 しかも ホテルの朝食もついています。 大阪往復の新幹線代より安いのですから 驚きです。 一体原価は どうなっているのかと思います。

因みに 同じ旅行代理店で ヴァンクーヴァーまでの往復航空券を 調べたら49,800円 でした。 ホテル無しです。

この 国内より海外の方が安い傾向は まだまだ続きそうです。 香港あたりだと、3日間で2万円以下のも出ています。

また、旅熱が 再発しそうです。

一人だと健康が第一。よく食べ、よく寝てください。

Friday, May 13, 2005

古き時代のことども(05-5-13)

「未完成交響楽」の始まりが、絵画だったとは、覚えていませんでした。 「菩提樹」という名前さえ浮かんでこないほど、日本語の記憶も衰えました。 英語では「Unfinished Symphony」とでも言うのでしょうか。 こちらのビデオショップで問い合わせてみたいと思います。
「青い山脈」も見る機会がなく、残念に思っている作品です。 原節子の相手役は池辺良でしたか? 手足のスラリと伸びきった杉葉子さんと、並んで歩いたとは、すばらしい青春の一齣ですね。 その頃の貴兄も、五月晴れのような澄み切った心で、振り返っても爽やかな思いでしょう。
それにしても、新宿高校には、捌けた漢文の先生がいたものですね。 さすがは東京の名門校です。 私は、英数が苦手でしたが、漢文か東洋史の教師か、博物館の職員にでもなれればと思っていました。
原節子も高峰秀子も健在とは!  原節子は、一連の小津作品の後、姿を消してしまいましたが、その引き際と、その名声にこだわらない引退後の処世の在り方は、桜の花の潔さを思わせます。 二人とも、年老いて、なお美しいのでしょうね。
私も「ローマの休日」は日比谷映劇でみました。 そして下宿のおじさんに薦めたところ、結婚以来初めておばさんと一緒に日比谷に出かけました。 ところが映画が始まってみると、違う映画。 おじさんは「これは2本立てなんだよ」と動じなかったのですが、映画が終わって判ったのは、隣の有楽座に入っていたことでした。
私がスペイン広場の辺りをほっつき歩いたのは1962年の夏。 1990年当時ロンドンの映画製作会社でプロデューサーをしていた長女が、日本の広告会社の仕事を請負い、このスペイン広場に日本人の若い男女を配し、寸劇のコマーシャルをつくりました。 その頃既にアイスクリームのゴミで広場が冒涜されていたのかどうか。
それにしても「ローマの休日」は不朽の名作ですね。 山田洋次監督も我々と同じ世代のようですが、あの作品がことのほかお気に入りのようです。 グレゴリーペックが最後に歩み去るシーンの歩数を数えたエッセイも、監督らしい余韻の残る随筆でした。
私がひそかにニンマリする思い出は、中学生の時にお上りさんとして、初めて東京に足を踏み入れた時のことです。 あの時は真っ直ぐ東京に入らず、辻堂の伯母の家に厄介になり、東横線を乗り換えて、多摩川を渡し舟で渡りました。 その時は、伯母が、大映の撮影所に連れていってくれたのですが、原節子主演の映画を撮っていました。 しかし残念ながら原さんの姿をみることはできず、三橋達也がセットに入っていました。 帰りは自由ヶ丘に出ましたから、大井線にでも乗ったのでしょう。
田辺兄は、東宝に入ったと思うのですが、ライムライトの交錯する世界から、よく長崎県に居を移しましたね。 学校を出て間もない頃のクラス会で、殆どのクラスメートがまだ独身だったのですが、「赤ん坊が夜泣くんだ」という話を田辺兄がしていました。 彼は、たしか都会的な美人の同級生と結婚したはず。 その奥さんが早々と育児に格闘しているイメージがどうしても結びつきませんでした。
日吉のカマボコ教室で、新庄兄が、「関西学院も受けたんだが、慶應に受かった後、面接があったので、冷やかしに行ってみたんだ。 すると試験官が『試験はどうだったか』と訊くから、『あんな試験やったら誰でも受かるんと違いますか』と答えたら、発表みたら落ちとったよ」と笑っていました。 そして「金があったら、映画を作ってみたいなあ」と言うので、さらに圧倒されました。 私にとっては、映画とは観るもの。 映画を作ってみようなんて発想の余地はありませんでしたから。 東京や関西には、若くてもスケールの大きなアイディアの持主がいるものだなと思いました。
その新庄兄が、哲学を学んで、高島屋に入り、鹿児島探題として赴任。 三田会の席で、隣にいた塾員に「重松という人がたしか鹿児島だったはずだが」と訊くと、その貴島さんが私の消息を伝えてくれ、そして新庄兄から40年ぶりの便りがモントリオールに届きました。 手書きの筆跡は実に端正。 その文体も美しい字にふさわしい、裃をつけた侍のような風格。 これがあの豪快な気象の持主と同一人物? そして、鹿児島の後、JR九州の執権となったと、貴兄からうかがい、驚いた次第です。 

Tuesday, May 10, 2005

懐かしの名画(05-5-10)

先日の「未完成交響楽」の乙女のシーンの件、確かにあります。シューベルトが質屋で金を借りたあと、外の「菩提樹」の歌声を聞き、その方を向くと、質屋の娘が「あの歌は最近凄くはやっていると」言い、彼が「あの歌は私が作曲したのだ」と答えるシーンがあり、そのとき1シーンですが、広場の泉を囲んで、乙女達が洗濯をしながら菩提樹を歌っているシーンが確かにあります。
質屋の娘が、こんなに流行っている曲の作曲家なら、楽譜が売れてお金持ちのはず、と言い、シューベルトが「私の曲は覚えやすいので楽譜は売れない」と答える有名なシーンです。
でも、よくここを覚えていましたね。
小生は、タイトルバックの風景がタイトルの文字が終わると動き出し、それが質屋に持ちこむ本物の絵だと判る最初のシーンが印象強く、この泉のシーンは覚えていませんでした。

それにしても、映画には印象的なシーンが多いですね。
「会議は踊る」の会議室の無人の椅子が前後に大きく揺れているシーン、「自由を我等に」のラストの男二人が広い道をふざけながら去るシーン{これはチャップリンが「街の灯」で真似しており、「モダンタイムズ」でオートメイションを真似したシーン同様、ルネ・クレールの影響大です}。
「第三の男」のウイーンの大観覧車、 「慕情」の丘の上の何の変哲もない樹{この樹は香港にはありませんでした。ハリウッドの近くで撮ったようです}、 「ローマの休日」のスペイン広場{この映画のあとヘップバーン気取りで、ここでアイスクリームを食べやる人が続出、食べこぼしも続出、遂に市はアイスクリームの販売と食べることを禁止しました}。
最近の映画ではこうした名シーンが見られなくなりましたが、なぜでしょうか。

そうそう、原節子と高峰秀子の歳を90近いと書きましたが、間違い。原さんは来月で85歳、高峰さんは81歳でした。
未完成交響楽のマルタエゲルトは生きていれば、93歳のはずです。死んだと言う情報はありませんから、存命かもしれません。
キャサリン・ヘップバーンは100歳で亡くなりましたから、まだ、有名俳優で存命の方は多いと思います。
原節子の「青い山脈」にはよい思い出があります。
この映画を、新宿高校で試写会をやり見せてくれたのです。
たまたま、小生、映画研究部に属しており、この映画の杉葉子という新人女優のことを話題にしたら、漢文の福家という先生が「それじゃー、杉葉子を呼んでやろうか」と言い出したのです。
話を聞くと、先生が上海の女学校で杉葉子を教えたとのこと。
それから話はよんとん拍子で進み、杉葉子が学校に来て話しをし、そして「青い山脈」の試写会をすることになったのです。
そして、高校の正門まで杉葉子さんを迎えに出るのが、なんと小生の役目になったのです。
新宿駅南口からの坂道を、杉さんがカツカツと足音も高く、一人で下りて来るのを、小生、正門で待っていましたが、杉さんに何と話して応接室までお連れしたか、全く覚えていません。
校舎からみんなが見ていて、真っ赤に緊張していたことしか記憶がありません。
昭和24年、高校1年のときでした。

映画の中で、恋文を読むシーンがあり「変しい、変しい新子様」と、「恋しい」が誤字で書かれているのをそのまま読む有名な台詞があり、流行語にもなりましたが、今のメールでは変換してしまうので、こんな誤字はなくなったと思いますが、逆に、漢字を書く学力は低下して、ラブレターも書けないかもしれませんね。

今日は思い出話になってしまいました。
今年の戦後60周年企画はかなり、日本でも多いようです。
NHKはラジオでもかなりの時間を割いて有名人の終戦時の話を聞いているようです。
カナダの兵隊が45,000人も亡くなったとは知りませんでした。
欧州が主体で、恐らく日本相手では少ないでしょうから、情報が流れてきていないと思います。
いずれにしろ、戦争が単なる人殺しに過ぎないことは明白です。
今も、どこかで馬鹿がやりたがっているようですがー。
では、また。 

Sunday, May 08, 2005

戦争の副産物(05-5-8)

そうですか。 日本でも、第二次大戦後660年を記念するプログラムがあったのですか。 こちらの放送番組は、5月8日がヨーロッパの戦争が終わって60年のVE DAY ということで、連日それに関するプログラムが大半の時間を占めています。 
特に、カナダ軍は、オランダの解放に寄与したので、生き残った80代の老兵達が、これが戦場を訪れる最後の機会と、大挙してオランダに渡り、町で住民の熱狂的な歓迎を受けています。 その様子がニュースで映し出されているのですが、カナダ軍も45,000人戦死したそうです。
まだ、日本は、沖縄で、死闘を続けていた時期ですが、8月にはどんな回顧番組がテレビのスクリーンから伝えられるのでしょうか。。
貴兄のお便りにあった渡辺大尉とアールヒップ兵士の話は、悲しくも、また感動的な、摂理を思わせるストーリーですね。 私も貴兄の文章を感慨をもって読みました。 
これは聴いた話ですが、東ヨーロッパに住んでいた夫婦が、戦争で生き別れとなり、消息が途絶えてしまったそうです。 ニューヨークの地下鉄で、ある人が、東欧の新聞を読んでいたところ、隣に坐っていた男が話しかけてきました。 そして、戦時中ヨーロッパで妻と引き裂かれた話をしました。 その話を聞いた人は、暫く前に、あるパーティーで出会った女性から、似たような話を聴いたことを思い出しました。 そしてその女性の電話番号を手帖に書きとめてあったのです。 「電車を降りよう」と促して下車し、公衆電話のダイアルを回しました。 「貴女が探している夫の名前は?」と訊いてから、その人は黙って受話器を渡しました。 「今電話に出ている人と話をしてごらん」と。 そして後は、涙にくれるばかりの男を残して去ったそうです。 
私は、この話を、モントリオールで、ラビ・ザカライアという伝道師が話すのを聴いたのですが、その後さらに、「フォーカス・オン・ザ・ファミリー」の、ジェームズ・ドブソンという心理学も伝えていました。 またリーダーズ・ダイジェストにも出ていたように記憶しますから、かなり有名な話なのでしょう。 
ニューギニアの悲劇については、私は知りませんでした。 真珠湾攻撃から僅か3年半の間に、政治家と軍人は、なんという地獄をこしらえてくれたものでしょう。 
放送作家の西沢実さんが、ラジオのインタビューで、「戦争は人間を鬼にしますからねぇ」と嘆じておられましたが、軍人として敗戦の憂き目にあい、捕虜としての体験をされた方の語り口は、今でも耳に残っています。
私の父は、終戦直前に招集され、老兵の二等卒として中国に渡りましたが、今思えば、よく生きて帰ってきたものだと思います。 中国の敵と戦うよりは、甥ぐらいの年齢の上等兵や下士官に殴られいじめられる方が辛かったのではないかと思うのです。 日本の兵隊は、戦地にあって敵と戦うだけでなく、日本軍特有のサディズムという二重の敵をも相手にしなければならなかったのですから、胸ふたぐ思いです

Saturday, May 07, 2005

安心しました(05-5-7)

一人住まいを満喫?されているようで、すこし安心しました。学生時代は、そういうことは判りませんでした。いつも笑顔で友人と話していた貴兄しか記憶にありません。

ところで、昨日NHKで終戦60年企画の「望郷」というドキュメンタリードラマを見たのですが、感情の高ぶりを抑えきれない素晴らしさでした。
1945年、軍医の渡辺大尉はシベリアの収容所でアールヒップというルーマニア兵と知り合います。ルーマニアは当初、日独伊三国同盟に参加しており、そのため彼はドイツ兵として戦い、ソ連の捕虜になったのです。そして、彼と渡辺大尉の間にドイツ語の会話を通じて、友情が芽生えていきます。
1946年アールヒップはさらに奥地の収容所に移されることになり、婚約者からわたされ、隠し持っていた婚約指輪を渡辺に託します。渡辺は着ていた下着までを差し出します。
そして1948年渡辺は帰国。ところが、1992年になってアールヒップから手紙が届くのです。
そして、56年ぶりに2002年、二人はブカレストの病院で再会を果たすのです。
脳梗塞と腎臓病で寝たまま、口も殆ど利けないアールヒップが渡辺の顔を見て、穏やかな笑顔を見せ、渡辺は慟哭するばかり。

この再会シーンはホームビデオで撮影されたものでしたが、このシーン一つで、戦争の悲劇、酷寒のシベリア、過酷な収容所生活、全てを髣髴させるものでした。
収容所のシーンは北海道にロケしたようですが、よく出来ていました。

真実のもつ迫力は、作られたドラマより何倍もの迫力があることを証明してくれました。
この渡辺大尉は現在、90歳で東京に住まわれているとのこと。

シベリア抑留では、いろいろな秘,悲話があり、映画「ひまわり」の日本版ともいえる、1945年朝鮮でスパイ容疑で捕まり、10年の刑期でシベリアの収容所に送られた日本兵がソ連女性と結婚し、シベリアに住んでいてたまたま日本に手紙を出したら、妻子が生きていたという話。
これは、映画と異なり、クラウデイアという37年間共に暮らした女性が夫を日本に返したのです。
これは、1997年当時マスコミが大きく取り上げたので、かなり話題になりました。

また、シベリアの収容所で非常に文学的才能を発揮した山本靖男という日本兵の死を悼み、同僚の兵士数人で彼の遺書を丸暗記し、{帰国時の荷物検査で書いたものはみな取り上げられる}帰国後、奥さんにその遺書を伝えた話、など数多くの悲話を耳にしています。

でも、戦争の悲劇を本当に伝えられる人は死んだ方ですから、全ては永久に語られることはないでしょう。たとえば、ニューギニアは日本軍は16万のうち、15万人が戦死か餓死、帰国できたのは1万人で損耗率93%。そのためか、ニューギニアの戦争を書いたドキュメントは極めて少なく、そのひどさは意外に知られていません。連合軍も、米4千人、オーストラリア軍8千人が亡くなったと言われています。因みに、日本軍の司令官安達二十三中将は、戦後、ラバウルで部下を多数死なせた責任をとると言って、自決しています。

亡くなった方より、生きて帰った方の人数が多いほうが、話が沢山あま伝わるのは当然かもしれませんが、寂しい悲しいことです。
カナダでも、戦争の悲劇の本は数多く出ているのでしょうか。
小生、前に戦争のことを1冊書きたくて取材を始めたのですが、家内の病気で断念しました。

「望郷」のビデオはとってありますが、カナダで日本のVHSタイプで見れますか?
見れるのなら奥様の実家にでも、お送りしましょうか。もしかすると、奥様もご覧になっておられるかもしれませんが。
もし、入用なら遠慮なくお申し越し下さい。では、また。

Shigematsu Akira Posted by Hello

Re: 大変ですね(05-5-7)

お見舞いいただいて恐縮です。 黙って食卓にすわれば食事が出ている。 洗濯物を籠に入れておけば、タンスの引き出しに畳んでしまってある。 そんな人的オートメーションから3週間スイッチオフして、多少の不自由を感じるのも、人生のサンセットを迎える者にはいいディシプリンかもしれません。
それに、私は一人でいるのが大好き。 日本にいた頃、会社の仲間とスキーの旅に行って、スキーの出来ない私だけが、一人宿屋のコタツに残っていたのですが、後日取引先の人が、「その時、アナタは実に幸せそうな顔をしていたと、Oさんが言ってましたよ」と言うので、「ハテ、どんな顔をしていたことやら」と頭をかきました。
息子も、昔、「暮らしに心配がなければ、一人でいるのが最も幸せ」と言っていましたが、私の母親や祖母のことを思い出しても、割合孤独に強い家系なのかもしれないと思います。
家内は、その逆の寂しがりやで、「一人で食事するより、嫌な人でも一緒に食べた方がいい」と言いますから、その方が人間として当たり前の感覚なのでしょう。
私は、こちらで、日本人と出会うと、つい舌の方が勝手にまわりだし、心にも無いことをベラベラ喋って、後で悔やむ始末。 ですから、「ノースピーク・イングリッシュ。 ノースピーク・ジャパニーズ」と無学のアジア難民を装うようにしています。 家内は特に人怖じする方ではないので、カナダ人とも日本人とも自然に話をしていますから、我が家のコミュニケーション・ディレクターといったところです。 牧師の母親としては適任だと思います。
「未完成交響楽」とは懐かしいですね。 私も戦前子供の頃みて、戦後直ぐ鹿児島の焼け跡のバラック映画館でもう一度みたのが最後です。 「泉の畔」の少女達の歌声が今でも蘇ってくるのですが、そんな場面があったでしょうか。
「オーケストラの少女」の英語の題名が判らなくて、ビデオ店で、ストコフスキーとディアナ・ダービンの名前から逆引きしてもらい、「100人の男達と一人の少女」と判明。 アマゾンから取り寄せ、楽しんでいます。 
「カナダこのごろ」は、確かに今の私にとって「生きがい」の役割を果たしているかもしれません。 部数は減る一方です。 今年初め780だったのが、昨日は711に減っていました。 「カナダ」と銘打ちながら、カナダに関係のない、昭和一桁の右寄りの表現が多いので、「赤毛のアン」的情緒を期待する人達が愛想をつかしたのではないかと考えています。 
ただ子供達は日本語が読めないので、傍目八目の批判もアイディアも彼等からは期待できません。 しかしこれは親の責任です。 
子供達が小さかった頃、一時、日本語学校に通わせたこともありましたが、日本語学校は宿題が大変。 ということは親が宿題をやらされるわけです。 そして、PTA,運動会、学芸会。 教師も親も、常に目は日本に向けられています。 先生によっては、「自宅では英語使用禁止」を強調する人もいました。 そしてある日先生に、「重松さんには会計をやってもらおうかしら」と言われたので、「もうこれまで」と、子供達を退学させました。
こちらの学校に日本人の子供が転入学すると、校長先生は、「出来ないのは英語だけですから」と、親を安心させるそうです。 一方、日本の学校では、「国語が出来ないから」と横滑りの転入学を渋るそうですね。 
私は日本に帰るつもりがなかったので、子供達がバイリンガルになるチャンスを奪ったわけですが、息子2人は、牧師とラジオと、それぞれ英語で通じる仕事に就いています。 娘も、一人はABC/ディズニーを経て現在シリコンバレーで映画製作。 後の2人はカリフォルニアとモントリオールでそれぞれ学校教師と、英語でなんとか食っているので、無責任父親としてはヤレヤレです。
これは負け惜しみの弁になりますが、二世三世でカナダで卓越した業績をあげている日系カナダ人は、ほとんど日本語が出来ません。 日英両語に堪能な神童達は、宮沢賢治の言葉を借りると、二十歳超えればただの人。 ガイドになったり、お土産店に勤めたり。 日本では英語のできる人は「英語屋」として軽く見られ勝ちですが、カナダ西海岸でもなまじ日本語ができる人は「器用貧乏」になるのかな? 多分私の誤解だと思いますが。

Friday, May 06, 2005

大変ですね(05-5-6)

奥さん帰国されましたか。カナダで5月には帰されるとお聞きしていましたが、貴兄の目の具合から今年は取りやめされたか、と思っていました。
その身体で、自炊されているのですか?歳を取ると身体にどこか具合の悪いところが出るのは致し方ないと思いますが大事にしてください。恐らく、イランのお嫁さんが手伝いされておられるのでしょうがー。

小生親父から「うちは血圧と糖尿は大丈夫だから」と言われていましたが、そのとうりでした。
体質遺伝で、殆ど決まってしまうみたい。先日亡くなった親友は兄弟も全部、癌でした。結婚する相手の体質の良いところを取って子供に伝えていきたいものです。
親友の奥さんは、いま自分の子供がどのくらい癌の体質を受け継いだのか気にしていますが、結婚するときにそんなことまで気にすることはまずないでしょうから、歳を取って慌てることになります。
親父は結婚するときに自分が近眼なので、目のいい女性と見合いした、と言っていましたが、そのお陰で小生、眼は良いので助かります。
義母の方は90歳を越してもテニスをやられるくらいですから貴兄は良い体質の奥さんに恵まれたことになりますね。

本は返本される契約自体が異常なので、決して売れたわけではありません。せいぜい1千部です。知名度のない我々の本は在庫を持ちたくない業者にとっては売れ残りは返本して、倉庫スペースの縮小を図るわけです。
最近の読書の衰退は、本の販売減少に拍車をかけていると思われ、今書きだめを始めた3冊目は、出版のみとうし無しです。

尼崎の事故はJR西日本の会社の体質問題になってきましたが、新庄君はJR九州の社長だったのですから、こんなことは知っていたでしょうね。
今年からF組の会から手を引いたので、会にも出ませんでしたが、会の前にあの事故だったら新庄君に質問が集中したのではないかと思います。
会の前に今年の出席者が昨年より大分減ってしまい、小生に出てくれとの話もありましたが、小生、家内の病気で出るどころではなく、やっと幹事からも解放されたところなので、断りました。したがって今年はクラスの連中の情報無しです。ご了承ください。

カナダこのごろは、また適当な話題があれば何か書きます。
貴兄の大変な努力でここまで続いてきたのだと、その努力に敬意を表します。特に眼には良いことなしですから、つらくなったらやめる勇気も必要でしょう。
息子さんも手伝われているのでしょうが、どこかで、譲られるのも一案です。
ただ、このページがおそらく貴兄の生きがいになっていると思われるのでこれは最終手段でしょう。
今日も一人で台所でごそごそやっている貴兄の姿を想像すると、ちょっと寂しいですね。奥さん孝行も大変ですね。貴兄の奥さんへの愛情が良く判ります。
また、慰め?のメールを送りましょう。  

これから暫くチョンガーです(05-5-6)

先ほど家内がバンクーバー空港を発って、成田に向かいました。 毎年この時期になると、母の日に間に合うように、東京に帰ります。 3週間滞在の予定です。 ハワイにいる妹も、同じ頃やってきて、中野に住む妹と3人姉妹顔を揃えます。
母親は今年91才。 元気で、ダブルスながらまだテニスをしています。 私なんか、ピンポンでもダメですが。 若い頃は病弱だったそうですが、高年になってから、丈夫になってきました。
その母親が、先日電話で、「少し身体の一部が痺れた感じで、気のせいか、喋りづらくなったような気がする」と言うので、家内は、「肉でも脂身が好きだから」と、気に懸けていました。
私は、高血圧に糖尿病、それにコレステロールの。 心臓の冠状動脈には血管を拡張のプリングを入れてあり、それだけでは心許ないと、同じく血管を拡げる作用の絆創膏みたいなパッチも貼り、毎朝毎晩てのひらに薬を載せて服用しています。 しかし家内の留守の間3週間は、散歩もラジオ体操もお休みです。 
昨日は、緑内障の専門医に診てもらい、色々テストを受けました。 帰りに、医療器材店で金属製のステッキを買い求めたのですが、それをついて歩くと、歩道の人も避けてくれます。 
「金嬉老の真実」は数十冊を残して市場で消化されたのですか。 それはたいしたものです。 私のまわりには、生憎と日本語の読める人がいないので、折角の有難いご好意をお受けすることができなくて、申し訳ないのですが、時が再び到れば、古書好きの人たちの間で洛陽の紙価を高めるのではないかと思います。 古書店主でエッセイストの出来根(?)さんですか、あの人なら古書を活かす智恵があるのかもしれません。 昔新米社員の頃、神田のゾッキ本屋の店頭でみた「努力しないで成功する法」というペーパーバック、おふざけのスタイルでしたが実はなかなかよい事が書いてある。 間もなくアメリカでミュージカルになり大成功を収めましたが、ビジネススクールでもあのプリンシプルは通ずるのではないかと思いました。 それが最初は、神田の通りに面した台の上のゾッキ本だったのですから。 
放送は、送りっ放し、消えていくものというお考えには理もありますが、私は活字が読めないので、「カナダこのごろ」も、ラジオやテレビを録音しておいて、何日も経ってからテープを聴き直し、そのデータを無断拝借、換骨奪胎して、1200字にしているというのが裏話です。
貴兄の透明なお便りは、また「読者ラウンジ」で紹介させてください。 最高です。

Tuesday, May 03, 2005

アドバイスを有難う (05-5-3)

家内の鬱のことでは、的確な助言と励ましの言葉を頂き、有難うございました。
この病気も奥が深く、他の例を拝見し驚きました。家内の場合はいいほうかもしれません。
ただ、一番困るのは傍にいるものがどういう対応をすればいいかがよく判らないことです。励ましは絶対だめということで小生の場合は眠らせることだけでした。
医者は睡眠が治療のベストというので、薬をきちんと飲ませたらあとは寝てくれだけで押しとうしました。

この間、小生時間があるときにビデオをかなり見ました。
小生の生まれたころの「巴里祭」「未完成交響楽」「モダンタイムス」から戦後の「青い山脈」「野良犬」「生きる」「七人の侍」「喜びも悲しみも幾年月」など、二十本くらい見たでしょうか。
そして、原節子や高峰秀子がまだ生きており{共に九十くらいか?}1932製作の巴里祭のアナベラが数年前まで生きていたことなど思い出し、人生長いなと考えてしまいました。
そこへいくと、アメリカの男優がわりと早く死んでいるのは、やはりあのネヴァダの核実験の後、砂漠でロケした俳優がかなり癌で死んだせいでしょうか。
ジョンウエイン、ゲーリークーパー、をはじめスーザンヘイワードなどの女優も含めて、特にジョンフォード一家のごとく、西部劇スター、スタッフが多く亡くなったのは、放射能のためと断定してよいのではないかと思います。このことでは、かなり本にも書かれ、アメリカの議会でも質問が出たと聞いていますが、結局どこの国も同じで、政府は認めなかったようです。
BSEの牛の数をアメリカが発表しないのも、この核実験のことを考えると当然という気がします。
ビデオを見ながら人間の寿命を考えるようになったとは、やはり歳ですかね。
でも、小生の生まれた頃の映画が今も見られ、感動を呼ぶことを当時の監督は考えたことがあったでしょうか?
絵や彫刻と同様に、映画という文化がここまで素晴らしいことに、一人感動していました。ビデオを沢山取っておいて良かったです。二、三百本はあるので、当分、楽しめます。  小生、放送が終われば消えてしまうので、本を書くことに転向したのは正解だったようです。
そうそう、「金嬉老の真実」の売れ残り本が、数十冊戻ってきて物置に置いてあるのですが、もし、貴兄が配る先があるのなら、10冊でも送ります。勿論ただで、送料もこちらが負担します。
本を読む人も少なくなり、まして外国で日本語の本は読者も限られていると思いますが、良かったらお申し越し下さい。

良い気候になってきました。つつじが見ごろのようです。
では、また。

Sunday, May 01, 2005

Re:本当は参ってます 050501

「本当は参ってます」   この一言に万感がこめられているように思うのですが、恐らく私にはその苦しみ、重みがまだ十分判っていないのでしょう。 この前もCNNの人気TV番組で、「欝」の苦境を通り抜けてきた人たちの1時間にわたる座談会がありました。 そしてその番組を、同じ晩に、6時、9時、12時と、3回繰り返して放映していました。 さらに週末にも、同じ番組をゴールデンアワーにリピート。 アメリカ人にとっても「欝」がどんなに身近な恐ろしい問題なのか、示していました。 出ていた人たちは、アメリカの芸能界、ジャーナリズムの世界でも著名なセレブリティばかり。 「死にたくなる」なんてのは生易しい方で、「汽車が自分の部屋に驀進してきて、その車輪に自分が吹き飛ばされそう」と美しい女優が言うのを聴いて、驚きました。 しかし、同じ番組に出演していた精神科医は、「大丈夫。 これは、治療可能な病気なんだから」と太鼓判を押していました。 
しかしながら、私も、日本の大学の医学部を出た、立派な精神科医に、1時間ずつ10回も診てもらったのですが、これといった効果があったようには思えません。 カウンセリングを受ける患者の私の方に、心の準備ができておらず、ワイフによると、「本当に直したいという気持がないから」だと言うのです。  内科の疾患も、患部を開きもしないで、推測で治そうとするのは難しいことでしょうが、風の中の羽根のように、いつも変わる人間の心を掴もうとするのは、さらに難かしいことだろうと思います。 
大学のキャンパスを歩いていた老教授が、学生と会って暫く立ち話をした後、「ところで、僕はどっちの方から歩いて来たかね」と訊ね、「先生はあちらから来られました」と言うと、「あぁ、そうかね。 じゃあ、もうランチは食べたんだ」と頷いたという話。 アブセント・マインデッドのプロフェッサーの微笑ましい挿話と思っていましたが、これはアルツハイマーの兆候なんですね。 今となっては、笑い話どころじゃありません。 丹羽文雄の「厭がらせの年齢」でしたか、老婆がいつも「まだ食事をしていない」と繰り返すくだりは。 辰野隆も晩年は同じ話を繰り返していたので、「悲しかった」と弟子が述懐していましたが、あんな偉いヒューもリストでも、病魔を退けることはできなかったのですね。 
「欝」の心配など私風情がするのは気障な話。 「ボケ」になったら、どうやってまわりに迷惑をかけるのを最小限にとどめるか、そっちの方も考えるべきなんでしょう。 今はまだ手をこまねいているだけで、何も知恵はありませんが、時々老人ホームに行くと、人々が車椅子にすわって、皆がだまってプロレスをみています。 明日は我が身かなと、長寿の呪いにヒヤリとさせられます。
「病気の話」「孫の話」はタブーと言っている間はまだまだ健全です。 そのままでずーッと押し通して、最期は「ひっそり」といきたいものです。