Saturday, December 30, 2006

年末ご挨拶 (2006/12/30)[o]

カードが今ごろ届いたようで、気抜けしたビールみたいで申し訳なし。

もっと早く出さないと、年末は郵便も遅れるみたいですね。これでは、ビデオは大分遅くなりそうです。ごめんなさい。

年を取ると1年が早く感じると言われますが、もう大晦日{そちらはまだ30日でしょう}となると、老いを感じざるをえません。
去年まで1.2あった視力が、今年の健診では0.8でした。
体重だけが増えるのも悲しい限り。

最後になって井上氏が硫黄島と戦争に触れていましたが、その表現に誤りがあって、小生、また気になりました。
「第2次大戦はルーズベルトの陰謀で始まったのは定説」といった表現があったのですが、
第2次大戦は「1939.9のドイツのポーランド侵攻~1945.9の日本の降伏文書調印」をいい、恐らく1941.12~1945.9の太平洋戦争{アメリカの呼び方}大東亜戦争{日本の呼び方}のことだと思います。

ルーズベルトが、ハルノートなどで日本を挑発し、戦争になったのはそれだけ見ればそういえるかもしれませんが、小生は、1928年の張作リン爆殺事件、1931年9月の満州事変から日本の満州・支那への侵略を始めたことが、アメリカの怒りをかったことは間違いなく、これが日本への強行策に繋がったと小生は見ています。

当時、欧米がアジアに植民地をたくさん持とうとしたからそれに対抗したとか、いろいろ言われていますが、国連の満州調査団のリポートにもあったごとく、日本は明らかに侵略を図っていたのです。

昭和天皇が、張爆殺の張本人の処罰を田中義一首相に求め、それが出来ずに田中が辞任したあたりから、軍部は暴走を始めたと見ています。

欧米諸国の植民地化の動きに反対して戦争が始まったのならともかく、日本も侵略したのでは行為を正当化できません。

「歴史家は人の背後にしかいられない」と大学時代にいわれたことを思い出しますが、小生、不勉強で日本史もろくろく判らず、この10年くらい本や資料を読み漁り、特に明治以後の近代日本を理解すべく、少しは勉強しました。

その結果はどうも、他の人と見解が異なる面が出たようです。

ここは私論ですから、勿論、貴兄向けの話で絶対に載せないで下さい。

年末にはふさわしくない話になってしまいましたが、硫黄島が議論を呼んで良かったと思います。
なお、映画の原題は「LETTERS FROM IWO ZIMA」です。

イーストウッドが監督賞を取るのは間違いないと小生は見ますが、あの撮り方ではアメリカ内部でも反発を招くかもしれません。

イーストウッド監督が広島・長崎を舞台に映画を作らないかとひそかに期待していますが、大量庶民殺人の原爆に謝罪一つ無く、エノラ・ゲイに原爆のことを一つも触れなかったアメリカですから、無理でしょうね。

日本は国として、大東亜戦争の総括もせず、勿論戦争犯罪人も出さず、
戦時中の大臣が戦後、首相になったような、いい加減なところのある国です。
東京裁判は日本が裁判の実施を認めたのですから、その結果に文句を言えた義理は無く、それよりも国独自で、戦争の責任者を処罰すべきでした。
あの、辻参謀が国会議員に当選したときにはあきれ、怒りを感じたのを覚えています。

年末に下らぬことをながながと書きました。

来年は少しは良い年になりたいですが、日本は増税、増税で年金生活者には厳しい年になるかもしれません。

お互い健康第一で!
     では、良いお年を! (06/12/30)

Friday, December 29, 2006

Thank you very much.(2006/12/29)[s]

立体的なすばらしいカード、今日届きました。 なかなか工夫をこらした楽しいカードです。 まことにありがとうございました。

もう2006年の閉幕も直ぐそこの角までやってきていますね。 来年は本を書いて、読者を啓発してください。 

私は、歴史とは、後ろ向きに歩いているようなものだと思います。 背中に目は無いのですから、来年どころか、明日も見えないのですが、今まで通ってきた道は見えています。 その道が続いているという前提を信じて後ろ向きに歩み続けているわけですが、そうは問屋が卸さないことは、皆百も承知のはずです。

背中の目が見えていれば、ミッドウェーの海戦辺りで戦争を終結していたでしょうが、上層部も皆盲でした。 3年半の戦争の結果、60年たっても制空権を取り戻せないのですから、「我が空も我が空ならぬ秋の空」ですね。 残念ですが。

どうか佳き春をお迎えください。 (06/12/29)

Thursday, December 28, 2006

東西の子育て (2006/12/28)[s]

イノさんのエッセーを拝見しておりますと、今の日本では、子育ては難しい課題のようですね。

青少年が比較的問題なく成長するのは戦時中だと社会学者は指摘するそうですが、一方で不景気になると若い者の礼儀が向上するとも聞いています。 若い人達も変化する社会に敏感に対応するのですね。 その論理を逆にすれば、平和が爛熟する時代にあっては、青少年に規律や礼節を期待する方が無理なのかもしれません。 行儀作法は親の躾家庭の躾が大事なのでしょうが、信仰に篤い母親が家庭に残って子供の成長を見届けている場合、成功の確率は洋の東西を問わず高いようですね。 

修身を教室で教えれば家庭の躾の代わりになるでしょうか。 私の知り合いでコンモンセンス豊かなクリスチャンがいるのですが、そういう人でも「カナダこのごろ」で教育勅語や修身教育を取り上げるのには反撥して、読むのをやめてしまいました。 30代の日本人ですが、世代の違いでしょうか。 新しい酒は新しい皮袋にと言いますが、現代は新しい倫理の教えが求められているのかもしれません。 教育勅語も明治官僚が天皇の名のもとに起草したもの。 昭和生まれの平成育ちには、万古不易の真理とは受け入れ難いののようです。 

子育てというとすぐ思い出すのが、味の素の鈴木兄弟ですが、長男の鈴木三千代氏を始め、東大教授、昭和電工社長と綺羅星の如く英才を輩出しているのは、先代に何か子育ての秘密でもあったのでしょうか。 ほかに伊藤道郎、伊藤喜策、千田是也の三兄弟。 尾高朝雄、尾高日尚忠の兄弟。 一高教授、大使、侍従長として業績のあった三谷兄弟。 現代では鳩山一家。 修身復活も結構ですが、そういう実例をケーススタディにして、ノウハウを探ってみては如何なものでしょうか。 

それに昭和天皇の兄弟について、白樺派の作家長与善郎が 「民間でもあれほど出来のいい兄弟が揃っているのは珍しい」と書いていました。 長与は兄も東大総長、犬養家とも縁戚にある家柄。 皇室にも近かったのでしょう。 戦後昭和天皇が国民の前に立たれソフトを掴み 「アッそう」と言われるのを笑った日本人もいた中で、天皇を「英邁」と評したのは異例のことだったと思います。 詩人の三好達治は幼年学校で同級だった秩父宮が 「フランス語は抜群だった」と記憶。 私の友人の父親は海兵で高松宮と同期。「高松宮は出来よったもんなあ」と感嘆の声を発していました。 これは余談ですが、三笠宮が戦後青山学院で教えておられた時食堂のテーブルで一緒になったアメリカ人女性に「アイアムプリンスミカサ」と自己紹介されたところその女性「アイアムクレオパトラ」と言ったと同僚の米人教師から聞きました。 三笠宮もアカデミックの世界では一流だったのでしょう。

マークトウェインは無神論者だったそうですが、悪童トムソーヤには日曜学校に行かせています。 現代のアメリカの教育に修身があるのかどうか無知なのですが、団塊の世代には無宗教の人が多いそうです。 それでも子供達は日曜学校に通わせているそうですから、どういう動機からでしょうか。

アメリカで有名な家族というと、ケネディ一家ですが、4人の男の子はいずれもハーバードに学び、一旦緩急あれば進んで戦場に赴いています。 長男は戦死。 次男は重傷。 三男は水兵。 四男は戦後ドイツで兵役に。

しかしロックフェラー家も富よりも人的貢献で知られています。 初代のジョンDロックフェラーは父親が失踪し信心深い母親に育てられ、二世のジュニアーはこれまた人格卓越の独り息子。 この人の息子5人がいずれも俊秀揃い。 二世の子育てが実を結んだのでしょう。 その英才教育については、本やTVで多く紹介されていると思いますが、文化や環境は異なっても、日本人の子育てにも参考になることと思います。 四世も若くして京都に学び、後に知事、上院議員。 現在上院の良心的象徴として認められています。 

これと対照的なのがイギリスの王室。 現代の日本の皇室はどうなのでしょうか。 ある人は 「日本の皇室はエンターテイナーではない」と外人に説明したそうですが、「なるほど、たしかに」と思ったことでした。 (06/12/28)

Tuesday, December 26, 2006

ビデオ送ります (2006/12/26)[o]

今、ビデオのダッビングをしていますので明日には「戦場の郵便配達」を送ります。

この硫黄島はいろいろ論議を呼んで面白かったですね。

小生は単なる映画評のつもりでメールしたのですが、それが日本の軍隊から戦争の見方まで広がって、小生は大分悪人にされたみたい。

もう、戦争を知っている世代はかなり少なくなったので、致し方ないでしょう。

戦争で自分が殺されるときにアット思っても
時、既に遅しでしょう。

来年から、少し旅を増やし本を書きたいです。

年内にビデオが着くといいのですが、ちょっと無理ですかね。

どうかお互いに健康に気をつけましょう。 (06/12/26)

議論もまた可 (2006/12/25)[o]

硫黄島の話、議論を呼んでよかったと思っています。
少しは、紙面が賑わったですから。

実は、あの反論を送るときにこういう議論が出ることを予測し、貴兄にカットしてもいいですよ、と、書いたのです。少し強めに書きましたから。

根屋さんにもう反論を書くことは考えていません。左翼呼ばわりは困りましたが-。

特に、戦争に行くのに死が必要条件なら行かないと書いたのは、相手を挑発する意味もあったので、尚更書くのをためらったのですが、{内心は戦争なら死を覚悟するのは当然、私でもそのつもりで参戦します。しかし、根屋さんがどういう人か読めないので、わざと書きました}
最近は、小泉の靖国参拝以来、あの戦争を正当化する人が多くなり、困った傾向だと思っています。
ALOHAさんもその一人です。何回か会っていますが、今回の反論どうりの話です。

満州・支那事変は明らかに、陸軍の挑発、大東亜戦争は石油が無くなって大弱りの海軍が陸軍を後押しして始まったと見るのが一般的ですが、それすら満州事変以後、米英の戦争挑発説に日本が乗せられた、というのが最近の説です。

硫黄島は栗林陸軍中将は、アメリカ留学のせいで親米派と見なされていて東条と合わず、行かされました。
市丸海軍中将も前任が駄々をこねて?[前任の和智氏については戦後僧侶として慰霊に半生を捧げており余り悪口は言いたくありませんが]、半分、傷痍軍人なのに行かされました。
貴兄の指摘するように後は、少年兵と召集された中年の兵隊で銃の扱い方も知らないような者までいたといわれています。
そんな人間に死に場所をわざと与えたのが、軍令部・大本営だったと小生は思っています。

あの36日間の玉砕戦を戦わずに硫黄島を放棄することも戦術としてあったはずです。どうせ、勝つことは無理だったのですから。
また、本土決戦も戦える武器も無く、勝てるはずも無かったのです。

昭和24年1月1日に最後の生き残りの日本兵2名が硫黄島で見つかりましたが、彼等は米軍の食料を盗んで生きていました。
そして、その兵隊の一人は昭和26年硫黄島へ日記を取りに行くと出かけ
投身自殺しました。

硫黄島がB29の不時着用、足の短い戦闘機の基地として使われて、本土の空襲、機銃掃射が増えたのはこの前にも書いたとうりですが、もし36日の期間が終戦の前倒しになったら、それも歴史を変えていたかもしれません。

テレビドラマ「戦場の郵便配達」なんとか年内に送るべく頑張ってみます。これも実話ですから、ぜひ、出来は悪くてもご覧下さい。

なお、東条の自殺失敗は当時、国民の冷笑を浴びましたね、小生も何故早めに口の中に拳銃をくわえて撃たなかったのかと思っていました。
口の中にくわえて死ぬのは、戦地では当たり前にされていたことで、東条が知らなかったとは夢にも思いません。ほんとは死ぬ気は無かったのではないでしょうか。
最近、東条の子や孫まで東条は犠牲者みたいなことを言っているのは全くおかしいです。いくら身内でも、善悪はわかって欲しい。

戦争は下の庶民が苦しみ、死ぬだけで、トップの者は皆平気な顔をしているのが、尚更癪にさわります。

今日は私信で好きなことを書きました。枯れ木も山の賑わいになったことで少しはお役にたちましたか?

F組の連中にメールをぜひ送ってください。10人や15人は読者が増えますよ。では、また。
(06/12/25)

Monday, December 25, 2006

日本の軍隊 (2006/12/25)[s]

「硫黄島論議に関連して」

硫黄島に何万の日本軍将兵がいたのか知らないのですが,二万人以上いたのでしょうか。 日本は精鋭部隊を送り込んだわけではなく、主体は志願の少年兵と赤紙一枚で狩り出された中年の補充兵だったと聞くと、大本営は初めから硫黄島を人柱にして見殺しにするつもりだったのですね。

それでも生き残って米軍に投降した将兵が千人以上いたと聞いて意外でした。 しかもこうした生存者は、洞窟で、戦友の屍骸を積重ねて防禦壁とし、火焔放射器から身を守ったのでしょう。 まさに地獄絵です。 半死半生の状態で米軍に救出されたのでしょうが、今は元気な姿をテレビに現しているところをみると、人間の身体の不思議な生命力に教えられます。 当時の補充兵はもう生存していないと思いますが、少年兵ならまだ70代で真実を胸に秘めていることでしょう。 

東条英機の「戦陣訓」は私も子供の頃レコードで聴きました。 「生きて虜囚の辱めを受くることなかれ」というかん高い声も覚えています。 そのご本人も、ミッドウェー海戦の辺りで自決していれば、東條神社ぐらい建立されたでしょうに、戦後まで生き残って、いよいよ米軍が逮捕にやってきたのを自宅の二階の窓から見ていて、初めて拳銃を取り出し、左手で左胸に発砲。 それが心臓を外れて、戦争裁判の席に立つことになったのですから、戦陣訓とは何だったのかと思います。 

そして「上官の命令は朕の命令と思え」と天皇の名をかたって星数の多い連中が兵卒に対する残忍な嗜虐行為を加えたことを正当化したのですから、嗚呼無情。 もっともそうした上官自身もかつては同じ残酷な扱いを受けてきて、それを次の階級に繰り返したのでしょうが。

私の父も終戦直前に召集され、北支に派遣されたのですが、二等兵の短剣の鞘は竹製でした。 軍靴はズックだったでしょうか。 復員してきた時、前歯があらかた無くなっていました。 若い上等兵や下士官に殴られたのでしょうが、どうしたのかと訊く勇気は中学生の息子にはありませんでした。 父も「敵弾に当たった方がましだと思った」とだけひと言洩らしました。 そのぐらい下級の日本兵は上官のビンタに、敵からの攻撃以上に、痛めつけられていたのでしょう。 前にも申し上げましたが、映画「硫黄島の砂」で侵攻の直前、ジョン・ウェインの軍曹が兵士を殴っていると、通りかかった上官が 「下士官が兵を殴るとは軍法会議ものだ」とたしなめるシーンがあり、その科白に驚きました。 

日露戦争の際の日本軍の行動は騎士道的であったと海外でも賞賛されたようですが、どうして同じ日本軍が、支那事変、大東亜戦争と、性格を変えていったのでしょう。 

軍歌に「恩賜の煙草をいただいて/明日は死ぬぞときめた夜は/荒野の風もなまぐさく/ぐっと睨んだ星空に/星がまたたく二つ三つ」というのがあります。 メロディは長調ですが、寂寥感が迫ってきます。 歌詞は間違っているかもしれませんが、私には忘れられない歌です。 零細農家の母親に育てられた息子が戦場で最後の煙草を胸いっぱい吸う。そして次に母親の手許に届くのは戦死の公報。 それが日本の多くの母親達のパターンではなかったかと思います。 何が東洋平和のため、大東亜共栄圏の大義のためだったのか。 しかしそういう疑問は許されなかったのです。

あの狂気の時代が過去のものとなった今の日本は幸せです。 しかし世界にはまだまだその狂気が大手を振ってまかり通っています。 カナダもアフガニスタンに出兵して多大の犠牲を出していますが、もはや平和を維持するためではなく、攻撃的性格の強い侵攻軍に変化しています。 アメリカと隣りあわせの国に住みながら、私にはどの道が正しいのか、その答がつかめないのです。    
(06/12/25)

狂気はいつまで続くのでしょうか(2006/12/25)[s]

根屋さんからの再反論が送ってきました。 別なメールで転送します。 こういう議論を聞くと、鉛色の憂鬱感が覆いかぶさってくるのを覚えます。 貴兄も不快な思いをされるのではないかと、躊躇するのですが、自分達の心を乱す雑音が聞こえてきても、そこをグッと我慢して受け流す度量の大きさが求められるのかもしれません。 どうかお許しください。 

根屋さんも思い込んだら一筋、他人の実体験や正論は耳に入らない人のように見受けられます。 こういう人を相手に議論を続けても不愉快になるだけ。 放置して忘れた方がいいかもしれません。 

硫黄島に何万の日本軍将兵がいたのか私自身は知らないのですが、日本軍は精鋭を送り込んだわけではなく、志願の少年兵や赤紙一枚で狩り出された老年の補充兵が主体だったと聞くと、大本営は初めから硫黄島を人柱にして見殺しにするつもりだったのですね。

それでも生き残って米軍に投降した将兵が千人以上いたということは、貴兄の論理を裏付けるものだと思います。 しかもこうした生存者は、洞窟で、戦友の屍骸を積重ねて防禦壁とし、火焔放射器から身を守ったのでしょう。 まさに地獄絵です。 当時の補充兵はもう生存していないと思いますが、少年兵ならまだ70~80代で真実を胸に秘めていることでしょう。 

東条英機の「戦陣訓」は私も子供の頃レコードで聞きました。 「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」というかん高い声も覚えています。 その本人は、戦後まで生き残って、いよいよ米軍が自分を逮捕に自宅にやってきたのを二階の窓から見てから、初めて拳銃を取り出し、左手で左胸に発砲。 それが心臓を外れて、戦争裁判の席に立つことになったのですから、何おか言わんやです。 

そして「上官の命令は朕の命令と思え」と天皇の名をかたって星数の多い連中の卑劣かつ残忍な行為を正当化したのですから、嗚呼無情。 私の父も召集された時、戦況は既に最終段階、二等兵の短剣の鞘は竹製でした。 復員してきた時、前歯が全部無くなっていました。 どうしたのかと訊く勇気は13才の息子にはありませんでした。 父は「敵弾に当たった方がましだと思った」とだけひと言洩らしました。 そのぐらい日本兵は上官の非道に、敵からの攻撃以上に、泣かねばならなかったのです。 敵が米軍や中国兵だけなら心境も別だったでしょう。 前にも申し上げましたが、米軍では、下士官が兵をなぐると軍法会議ものだったそうですから、残念ながら文明も文化も違います。 

「恩賜の煙草をいただいて/明日は死ぬぞときめた夜は/荒野の風もなまぐさく/ぐっと睨んだ星空に/星がまたたく二つ三つ」 歌詞は間違っているかもしれませんが、私には悲しく響く軍歌です。 農家の母親が20年かかって育てた息子を徴兵で軍隊に取られ、菊のご紋を印刷した煙草を形見に、戦死の公報を受け取る。 それが日本の母親のありふれたパターンだったのではありませんか。 何が、東洋平和のため、大東亜共栄圏の大義のため、という疑問は許されなかったのでしょう。

あの狂気の時代が過去のものとなった今の日本は幸いです。 しかし世界にはまだまだその狂気が大手を振って歩いています。 アメリカと隣りあわせの国に住みながら、私にはその答がつかめません。

Sunday, December 24, 2006

病室の一隅で (2006/12/24)[s]

「年の瀬も迫ってきたが、人生の終りもすぐそこの角までやってきているような気がする」

「私も75だが、気力体力は四捨五入して80じゃないかな。 もっとも80になってみないと本当のところは判らないが。 実は昨日心臓の専門医の所へ行ったんだが、カルテを見て、『今年はハードイヤーだったね』と言われた」

「というと心臓でも悪いの?」

「いや、6ヶ月に一回心臓を診てもらっているんだが、血圧も血糖も上々だと言うんだ。 ただ8月と11月に二度入院したからね。 ファミリードクターには毎月健康診断をして貰っているんだが、血液検査も定期的にやっているので、健康はまあまあだ。 ただ時々身長をはかるのだが、年取って段々縮むからだろうね」

「ちょっとした人間ドックだね。 費用は?」

「勿論タダだ。 もっとも税金でまかなわれているから、多額納税者におんぶかな」

「それで差額のベッド代は?」

「そんなものは無かったな。 今までに個室に入ったこともあるけど、やはり無料だった。 州や病院によっては違うのかもしれないが」

「病室は4人部屋か」

「そうだ。 200人ぐらい入る病院だが、意外なことに男女同室。 つまりCOED だったのには驚いた。 ベッドは一応カーテンで仕切ってあるけど、声は筒抜け。 向かいにいたのは私と同じくらいのおじさんだが、枕許の電話が鳴ると、吠えるような声で、「大きな声を出すな」とまず一喝。 そしておもむろに「誰?」とのたもう。 大学の先生らしくて、点滴について、看護師に講釈し注文をつけるんだ。 忙しい看護師達には迷惑だったかもしれない。 あまり見舞い客もなかったな」

「女の人というのは?」

「うん、隣のベッドに80代の全盲の婦人がいた。 いつもラジオのクラシック音楽を聴いていた。 5年前に失明したと言っていたから、マーキュラー・ディジェネレーションかもしれない。 年寄りには多いからね。 そのご婦人、一人で食事も出来ないんだ。 しかし性質が可愛いんだろう。 よく非番の看護師が話しにやってきていた。 クラシック音楽には、気難しいお向かいの先生も喜んでいた。 斜向かいにいた若い女性は麻薬中毒じゃないかな。 酸素吸入をしていたから肺炎かもしれない。 それでも注文をつけるのは一人前。 「ミルクが生ぬるい」とか「冷たい」とか文句を言っていた。 それでいて「サンキュー」と言う言葉は聞こえなかったなあ。 物を頼む時は「プリーズ」と言った方がいいと思うけど」

「ドイツを旅行した友達が、「ダンケ」と「ビッテ」だけで用が足りたと言っていたが、「メルシ」と「シルブプレ」もそうだろうね。 それで治療の方は?」

「私の場合は胃潰瘍だったんだが、輸血に点滴。 それに私に胃カメラをのませた中国系の専門医が2人の若い医者を連れて診にくるんだ。 その外にやはり中国系の女医が担当医としてやはり2人のお付きと共にやってきた。 そのお付きの若先生達は、いずれも彫りの深い浅黒い顔だったなあ。 それに香港系の女性インターンと白人女性のインターン。 この白人の女医さんというのが珍しいくらい親切で上品だった。 一日に3回、丹念に全身を聴診器と触診で診てくれるんだ。 この8人の先生達がチームになって私の病状をディスカスするらしい。 そういうわけでインターンも観音様というか、こちらの人ならエンジェルと呼ぶんだろうな。 幼児の頃から日曜学校で愛の精神を教え込まれているからかな。 白人だから優しいというのではなくて、たまたま優しい人が白人だったということだが、看護師も心をくばってくれるのは白人が多かったなあ。 夜は東南アジア系の若い人だった。 恐らく昼間の白人は経験が長く、シニオリティがあるのかもしれない」

「食事はどうだった?」

「うん、入れ物は大きいんだけれども、胃潰瘍にはジュースばかりなんだ。 それも市販のプラスチックのカップにアルミ箔をかぶせたのをね。 みんな患者によって一人一人献立が違う。 しかし後で聞いたんだが、病院も経費節約でね、キッチンは民間に委託なんだそうだ。 病院がキッチンを直営すると、時給17ドル払わなければならない。 それが民間に丸投げだと、時給9ドルですむんだそうだ。 それに料理もインスタントのアルミ箔の袋を鋏でジョキジョキ切ってそれを出すのだから、シザーズ(鋏)料理とでも言ったらいいのかな。 ジュースばっかりだったからおかげで痩せたよ」

「東京にいる友達が、奥さんの入院費に毎月50万円かかったと言っていたが、大阪で行き倒れになった友人は、保険の上に毎日1万円ずつ払わされたというし、またボストンで眩暈をおこした知人は、病院の費用が一日1万8千ドルだったと聞くと、君の場合は安上がりだったね」

「1セントも1ペニーも払わなかったんだから。 それにカナダの救急病院もERイマージェンシーで長時間待たされると評判が悪いが、私の場合朝6時だったが医者が即時に立ち会ってくれた。 病状によって待たされる時間も違うのだろうが、今回は幸運だった」 

(06/12/24)

Thursday, December 21, 2006

硫黄島 (2006/12/21)[o]

PCの具合も良くなったようで、良かったですね。
小生相変わらず家事に精を出しており、なかなか時間が取れません。
「硫黄島への郵便配達」もダビングする余裕がなく、送るのが少し遅れます。

根屋さんの見方、貴兄も言われているように若い方か、戦争を知らぬ世代でしょう。

硫黄島の戦いの目的は、確かに本土への攻撃を1日でも遅らせ、本土の防衛陣地を確固たるものにすることにありました。

しかし、36日戦って兵隊はみんな死にたかったのでしょうか?最後まで、
水も食料もなく、硫黄の噴出する炎熱地獄から、這い出して、生きたいと思ったのではないでしょうか?手紙は、家族といつか再会することを望んで書いたのではないでしょうか?生きたいのは誰でも同じ気持ちだったのではないでしょうか?

1941年、東条陸軍大臣の出した「戦陣訓」で「生きて虜囚の辱めを受けるな」と言われ、司令官の命なく退却することは「敵前逃亡」と言われた時代です。生きたくても、生きるな、と教えたのが当時の軍部です。
人間で一番大事な生命をないがしろにすることを教えたのが、旧日本軍です。それを疑問に思っていたのが庶民です。
また、パンを焼きたい、畑を耕したいと思いつつも祖国を守るという大義名分で戦場に赴いたのです。

私も2回家を焼かれ、焼死体の片付けをして学校に行き、校舎の屋上にあった高射機関砲のお陰で、機銃掃射を何回も受けました。
その怖さは戦場に比べたら何十万分の一ですが、死にたいと思ったことは一度もありません。常に、生きることを考えました、が、残念ながら友人の何人かは空襲で亡くなりました。

米英だけでなく、ドイツもソ連も他国は最後まで戦えば、名誉の捕虜になったのです。何故、日本だけが「死ね」と教えたのか。
平和に生活していた庶民が、立派に戦ってそれでも無理やりに死なねばならぬことは、不条理につきます。

私も祖国や家族を守るために戦え、といわれたら銃を取るでしょう。
しかし、それが「退却・捕虜無し。命を失うことが必要条件である」と言われたら、行きません。
武士道も、立派に生きることであり、死ぬことではなかったはずです。
武士道は死ぬことと見つけたり、という言葉もおそらく作り物でしょう。

それを、丸め込んできたのが当時の日本の軍部だと私は理解しています。

陸軍は本土決戦を主張し、8月15日の直前までポツダム宣言の受諾に反対していましたが、そのときに残っていた石油は決戦用に保存していた飛行機約1万機を1回飛ばしたらなくなる量で、食料は軍人の分しかカウントしていませんでした。海軍は壊滅していました。それでも天皇にまで戦えるとの嘘の報告をしていたのです。
我々には、いつか神風が吹く、とまで言っていたのです。

日清・日露・第1次世界大戦と戦前・戦中の日本軍は、負け戦を知らぬことで、おごってしまったとしか思えません。
負けて初めて戦争の怖さ、ひどさを知ったといって過言ではないでしょう。
アッツ島から始まって、マキン、タラワ、ぺリリュー島、サイパン、グアム島、硫黄島そして沖縄と玉砕戦が続きました。
民間人も多く亡くなりました。それがあの支那事変・大東亜戦争だったのです。310万人の死者のうち、もし、退却、捕虜が認められていたら、かなりの方が生きていたはずです。

これだけ申し上げたら、根屋さんも少しは私が書いた本意を理解していただけたでしょうか。

少し余計なことまで書いてしまいましたが、その部分は貴兄が適当に切ってください。
根屋さんのような考え方はまだ、かなり残っていると思います。それも日本の教育のせいでしょう。

息子さんはアメリカで独立してやっていける見通しを立てられたのではないでしょうか。
何れにしろ、小生は子供達の就職、生き方にアドバイスこそすれ、注文をつけたことはありません。貴兄も同じでしょう。
人間、一人で生きていく以外に方法はありません。
看病生活も7年を超しましたが、これも運命。
お互い、100歳に向け頑張りましょう。
拙い文で勘弁を。  (06/12/21)

Wednesday, December 20, 2006

硫黄島 (2006/12/20)[s]

今日、「阿部様のご意見に異論あり」という投書が送られてきました。 本文は次の通りです。

「大阪八尾市の根屋 と申します。
かねてより「カナダこのごろ」を拝読させていただき、感謝しています。

ところで、先日の安部様の「硫黄島第2部」を拝読いたしました。拝読しつつ、次のくだりには異論をはさまざるを得ませんでした。

>アメリカの物量戦の前で、むなしく精神論だけで 退却、降参も出来ず死んでいく日本兵。

そうでしょうか。なるほどこの見方では、散華された戦士の方々のお気持ちに沿うのでしょうか。

この島を経由して内地を攻撃させないという気持ちで最後の兵士まで戦われたのではありませんか。

>こうした優れた反戦映画が 硫黄島を舞台に出来たことに 何とも言えない感動を覚えました。

小生はこの映画を「反戦映画」と捉えることはできませんでした。

極限状態の中にあっても、祖国にために最後まで戦った兵士の戦いざまと、日本兵の武士道に通じる精神を描いたのではないかと思っています。

皆様のご意見をお聞かせください。

根屋 雅光 拝」

* * *

この人、若い人でしょうか。 それとも皇国日本のいやさかを今でも信じている「愛国者」でしょうか。

私なら、貴兄と同じ気持です。 恐らくこの人は空襲も艦砲射撃も経験したことのない方でしょう。 

最近 「父親達の星条旗」を映画館でみてきました。 館内にはほかに5人程しかいませんでした。 (料金はシニアーで4ドル)  映写機のアーク灯が弱いのか、全体に暗い色調でした。 いや、私の目が弱いせいでしょう。 

近頃英語の理解力が衰え、兵士達の英語もわからず、筋もよくつかめないまま坐っていましたが、すごい映画だということは判りました。 あれが紙芝居とは、聞いて驚きます。

帰ってきて、貴兄の文章を読み返し、あらためて、貴兄の深い洞察と鑑賞の力に感銘しました。

ケネディ大統領は、演説の中で、「硫黄島」の戦いに言及していますね。 それほど、太平洋戦争のシンボルだったのでしょう。 ケネディ自身も、PTボートを日本の駆逐艦に切断され、死線をさまよい、大海を負傷した部下をかかえて泳いだのでしょうが、その彼でさえ硫黄島は天下分け目の死闘だったのでしょう。

私が45年前、ワシントンに行った際、あれはアーリントンの墓地だったでしょうか、星条旗を打ち立てる兵士達の銅像を見ました。 有名な写真の通りでした。 そして星条旗だけが風にひるがえっていました。 アメリカも全力をあげた戦いだっただけに、あの星条旗は何物にもかえがたい戦争の象徴だったのでしょう。

しかし、硫黄島にいた日本軍将兵の主力は、少年兵や中年の召集兵だったそうではないですか。 大本営や軍令部で参謀肩章をつけた士官達は何をしていたのでしょう。 精神論をぶって理論派を叱咤した辻参謀や、ビルマで多数の日本兵を死なせながら自分だけ士官学校長に転じてぬくぬくと生き残った牟田口軍団長のことを聞くと、運命は残酷なものだと思います。 それに引き換え、赤紙一枚で、狩り出された老年兵に、何が祖国の栄光だったのでしょう。 私の父も、終戦直前に二等兵として召集され、北支に派遣されましたが、幸い生還しました。

「硫黄島の砂」という映画をちょっとだけ見たのですが、ジョン・ウェインの軍曹が遅刻した部下を殴る場面がありました。 そこを通りかかった上官が、「下士官が兵を殴るのは軍法会議ものだ」と言う科白がありました。 殴られた兵士は、「いえ、柔道の技を披露していたのです」とその場をとりつくろっていました。

城山三郎も、海軍の少年兵として、まともな食事も与えられず、毎日殴られてばかりいたそうですが、恐らく私の父も若い上等兵に殴られたことでしょう。 抵抗できない者を痛みつけるのが大和魂だったのでしょうか。 殴れば神風でも吹くと、若い伍長や軍曹は思ったのでしょうか。 まさか。

その性格と慣習は、今の日本のビジネス社会でも残っていませんか。 日本人も他国人に劣らず、残酷で残忍な性質をもっていると思うのです。 そして皆我が家に帰れば善良な夫や父になるのでしょうが。 

特攻機を飛ばしたのも、あたら有為な若者の命を軽んじた、将官の盲目的な恣意に基づいたものだったのでしょう。

それにしても、米軍に投降して、食料を洞窟に届けにきた日本兵を同じ日本兵が撃ち殺し、沖縄ではもっとひどい仕打ちが民間の婦女子に対して行われたと聞くと、日本が平和を声高に叫ぶ資格があるのかと躊躇する気持になります。

それにしても、硫黄島が東京都下だとは知らなかったので、ショックを受けました。 東京の足許で、戦史に残る激戦が行われたのですね。 

「硫黄島からの手紙」の英語の題名をもしご存知でしたら教えてください。 こちらの映画館は、日に何本も違う映画を時間を分けて上映し、題名だけしか看板に出ませんので。

どうかお大事になさってください。 私もほどほどにやっています。 (06/12/20)

コンピューターのことでご迷惑をかけました (2006/12/19)[s]

どうもすみません。 お手数をおかけして。 しかし、正直なところ、井上さんから送ってくる原稿が、当方で受信する際に小さく化けて、弱っていました。 そのぐらい眼が劣化しているのですね。 しかし世の中には私よりもっともっと悩みと重荷を背負っている人が多いのですから、このぐらいのことで弱音を吐く資格はありません。

井上さんのエッセーも貴兄の手を経ると実に明快で力強く読め、ちょっと見ただけで元気が出ます。

しかし今夜バンクーバーの知恵者とカリフォルニアの息子、それに ISPインターネットサービスプロバイダーのテクニカルサポートの3人の助けを得て、問題はほぼ解決しました。 今から井上さんにその報告をします。 もう岡本さんの手を煩わさなくても大丈夫です。

コンピューターイリテレートは困りますねえ。 眼が弱いというのは致命的です。 話題の IPod も使えないし、ブラックベリーも使えない。 テレビを見ても、水で薄めたような淡い色合い。 セルフォーンもますます複雑で高級化し、鷲の眼でもないと、使えこなせないですね。

しかし、今夜は、数日振りでコンピューターが使えるようになったのでハッピーです。

鍼は続けています。 2~3年かかっても、ここに生きている限り、努めてみたいと思います。 眼にいい漢方薬ものんでいます。 私は、ある日突然パッと開眼するような奇跡を期待したのですが、これからは薄紙を一枚ずつはいでいくような進歩があれば、長生きした甲斐があると思います。

今日聞いたのですが、哲郎はCBCを辞職しました。 CBCに残っていれば、セミ公務員のようなものだから、無能でもいずれ年金がつくしと年寄りは思ったのですが、35才の身には、カナダよりもアメリカでギャンブルしてみたいのでしょう。 嫁がそういう生き方をサポートする以上、私達も文句はありません。

今夜はこの辺で。 今日は食欲もなく疲れていましたが、コンピューターの機能が戻って、元気になりました。 (06/12/19)

Tuesday, December 19, 2006

硫黄島第2部 (2006/12/17)[o]

雑事を一つ一つ片付けているうちに毎日があっという間に過ぎてしまいます。

硫黄島第2部「硫黄島からの手紙」やっと見てきました。これがハリウッド映画かとびっくりさせられる映画でした。台詞は98%は日本語、日本で作られたアメリカ反戦映画というのが第一印象です。
日本人よりも大東亜戦争当時の日本をイーストウッド監督はよく学んでいて、この映画を作ったことにまず驚きました。

農家の息子が、パン屋の親父が召集令状1枚で戦場に狩り出され、千人針を持って水も食料も不足する孤島へ送り込まれる。そして、愛する家族、父母、妻子への切々たる思いを手紙に託す。

そうした平凡な庶民が戦争という不条理な世界の中で、死んでゆく。
この姿をイーストウッド監督は、最初に「1944年硫黄島」のタイトルこそあるものの、何時から何時まで戦いが続き、日米あわせて何人の兵隊が死んだということは全く抜きにして、個人、個人の兵隊の苦悩をストレートに描いています。

その戦闘シーンの凄まじさは第1部以上です。

アメリカの物量戦の前で、むなしく精神論だけで退却、降参も出来ず死んでいく日本兵。
それでも第1部を見た硫黄島の生き残り日本兵が「あんな紙芝居みたいなものではなかった、見るに耐えず途中で映画館を出た」というコメントが新聞に載っていましたから、これでも実際の戦場を現していないのかもしれません。
それでも、館内では眼を覆ったり、下を向く人も見かけました。

こうした優れた反戦映画が硫黄島を舞台に出来たことに何とも言えない感動を覚えました。しかもそれが当時敵国だったアメリカ人によって作られたことに日本人として恥ずかしさすら覚えました。
恐らくこの映画はたくさんの賞を取るでしょうが、貴兄もぜひ1・2部ともご覧になられることをお薦めします。

この映画が封切られた9日にフジテレビが、「硫黄島への郵便配達」という
テレビドラマを流しました。
あの手紙を一式陸攻で硫黄島へ運んだパイロットの話です。
これも実話です。ビデオをとってありますからその内に送ります。
イーストウッド監督も恐らくこのドラマを見ているでしょうが、出来は悪く、
中で戦争だというのにネクタイを締めている士官が出てきて仰天しました。もっとも新聞では褒めた視聴者評が載っていました。
もう、今のプロデューサー、ディレクタ-は戦争を知りませんから考証がでたらめなのです。
イーストウッド監督の方が余程日本を調べています。

ただ、このテレビドラマの中で市丸海軍中将が書いた「ルーズベルト大統領への手紙」のことが出てきますが、私は九州の鹿屋の海上自衛隊の資料館でこの手紙のコピーを見ました。
残念ながらルーズベルトはこの年の春急死し、この手紙を読むことはなかったのですが内容は素晴らしいものでした。
あの戦争に勝ってもアメリカは大変なことを背負い込むことになることを市丸は見抜いていました。

戦争がどんなに自己主張に過ぎず、悲惨なことは判っているのに、未だに世界で戦争が起こります。
戦争を命じたトップがまず先頭に出て自ら戦うか、その後から兵隊が行くか、トップ同士でジャンケンでもして勝敗を決めるべきです。
大統領も首相も後ろで旗振りだけしているのはもう誰もついていかないのではないでしょうか。                            」

今年はひどい年でした。
まだ年賀状1枚書いておらず、今から大晦日に向けて働き蜂の日々でしょう。コンサルタントの仕事を辞めてもこの状態ですから、来年も思いやられます。

貴兄も先ず、胃潰瘍を治し、それから眼の治療に励んでください。
なんとか少しでも健康でもう少し生きてやりたいことをやりたい。 (06/12/17)

Thursday, December 14, 2006

メールを有難う (2006/12/14)[o]

素晴らしいクリスマスカードとメールをいただきながら、返事が遅れ申し訳ありません。
相変わらずのバタバタで、どうしようもありませんでした。

病気のその後はいかがですか?
同じ病室の方の描写を拝見すると、貴兄の観察力の凄さ、表現力のすばらしさが判り、尊敬します。この余裕はどこから出るのでしょうか。
胃潰瘍は鎮痛薬が原因と井上氏のメールで見ましたが、小生は始終、頭痛と微熱に悩まされ、薬を飲み続けていますが 必ず、強い胃の薬を併用しています。
そうしなければ直ぐに潰瘍が再発するからで、鎮痛剤は胃を荒します。

でも、おそらく一時的な病状でしょうから、薬で直ぐ完治するでしょう。

メールの読者が減っているのは、会社のせいで中身とは無関係でしょう。
増やすにはF組の名簿でかなりがアドレスを載せてありますから、一度、全員に送られたらいかが?
みんな時間を持て余している連中ですから、反響は多いと思います。
みんなが喜ぶと思います。

小生の友人にも宣伝しますが、我々の世代ではアナログ人間が多く、パソコン・レコーダーなどの機械を扱えないのが意外におおく、これだけはどうしようもありません。

貴兄がせっかく、ケベックや日系人の話など努力して書かれているのを見ると、ぜひ読んでもらいたいと思う反面、反響は少ないと覚悟せざるをえませんね。

年賀状を書く準備で名簿を見ていたら、日本経団連のコンサルタントで 小生が在籍16年と一番の古株になっていることを発見しました。
50台で入ったので、通常60の定年から入会した人に比べ、在籍だけは最長になってしまったわけです。コンサル定年は75歳です。
もう、仕事も止めるので 定年前に退会しますが、退会の時は コンサル会議にも出ず、スーと消えようと思っています。

引き際の難しさは誰でも感じるでしょうが、貴兄や小生のような自由業的な仕事は生涯現役もあるので、小生も書くことだけは続けるつもりです。

カナダこのごろは、井上氏の原稿と貴兄の眼にかかっていますから、先ずは眼を大事に。
この文は載せないで下さい。
この次は私信でなく、ブログにも載せられるような文を書きます。

貴兄の病気の良くなることを祈りつつ。 (06/12/14)

日系人のことども (2006/12/14)[s]

イノさんへ 

先日、「戦時中、日系人の私有財産は没収されなかったのか」というご質問をいただきましたが、厳密には「没収」とは言えなくても、事実上は没収に近い形で財産を失ったという話を聞いています。 

1941年12月太平洋戦争が勃発して間もなく、バンクーバーにいた日系人2万人は、博覧会場にあった家畜共進会の厩舎に集められ、それから鉄道で奥地に送りこまれたのでした。 そこは人里離れた原野や廃鉱になったゴーストタウンでしたが、当時カナダ連邦警察は移動に反対したものの、反日的な政治家の意思によって強制移動が行われたものです。

そして私有財産の家や漁船は、持主には断り無く、政府によって二束三文で競売に付され、その名目的な僅かな売却代金を収容所にいる日系人に押し付け、事足れりとしたようです。 敵国民扱いの日系人の中には、第一次大戦にカナダ軍兵士として参戦した元将兵もいたのですが、抗議することも許されず泣き寝入りをせざるを得なかったのでしょう。

収容所に移された時、幼児だったかまだ生まれていなかった三世や四世は、戦後だいぶ経って、自分達の親が受けた仕打ちに憤慨し、補償請求の運動を起こしました。 こうした運動はカナダに限らず、世界各地の民主主義社会でも共通してみられることかもしれません。 第二次大戦中日本軍の捕虜となった英米オランダ軍の兵士達は、戦争が終わるとその大半が日本を許す気持になったようですが、その捕虜の家族や友達は日本人に対する憎悪を燃やし続けました。 戦後30年近く経ってから天皇がヨーロッパを旅されましたが、その時敵意に満ちた行動が各地でみられました。 北アイルランドの紛争も、源を辿れば数百年昔の故事に遡るのですが、スコットランド系のプロテスタントとアイルランド系のカトリックは昔日の争いを今も忘れずお互いに憎しみを煽っているのもそのたぐいでしょう。 実際に自分達が体験したことのない先祖の恨みを痛切に覚えて、子孫が長く憤怒するのはこれからも果てしなく続くことでしょう。

ですから、戦時中幼児だった作家のジョイコガワさんが、偏見と差別に苦しんだ両親の世代の物語を詩のような麗筆によって描くと、洛陽の紙価を高めることになりました。 その作品を読んだ他の多くのカナダ人も紅涙をしぼって日系人のために同情してくれたようです。

その効果もあったのでしょう。 戦後半世紀近く経って、時の進歩保守党政府が日系人に対して議会で正式に謝罪を行い補償に応じました。 あれは1990年に掛かる頃だったでしょうか。 カナダより一足先に、アメリカで日系人に対する補償が行われたために、カナダでも遅まきながら、そのパターンを追ったのでしょう。 もしアメリカの先例がなかったらどうなっていたかわかりません。 補償の額は、アメリカよりは少ないものでしたが、それでも日系人にとってはこれで一応のケジメがついて胸のつかえがおり、結構でした。

三世四世の中には、コガワさんのほかに活動家もいて、日本から戦後移住した新移民の中の有志も加え、自分達が直接苦しい目にあったわけではないが、親達の苦労を偲んで、政界と世論に訴えました。

しかし、私が直接会った一世二世のお年寄り達によると、別な受け止め方もありました。 その一世二世からは聞いた言葉は次のようなものです。

「戦前の日本人いうと、古着のオーバーを着て、それも袖や裾をつまんで直せばいいのに、ダブダブのままルンペンのような薄汚ない恰好で、あれじゃあ嫌われるのも当然ですよ」 
「収容所いうても、ちゃんと生活は保証されとるんでしょ。 戦前は仕事がなくって失業しとった人達も、収容所では暮らしの心配もなし。 日本の皆さんは、戦争で苦労されとったでしょうに、私達はまるでホリデーでしたよ。 盆踊りや野球大会なんかもよく行われて、それは楽しいこともよけいありました」
「それが最近(1990年近くになって)三世四世の若い人達が立ち上がった。 わしらそんな気持はないんやけど、その人達の権幕がすごいのよ。 それでわしら何にも言えんかったんよ」
「そりゃあ、戦前のBCでは、日本人に対する偏見と差別がありましたよ。 今思い出しても、バンクーバーには帰りたくありませんね。 しかし戦時中こちら(ケベック)に来たら、そりゃあ人が親切。 実によくしてくれました。 今ケベックが独立するかもしれんという動きがあるが、あの戦時中のことを考えると、たとえ独立しても、ケベックを去って西部に帰る気にはなれませんよ」

これはCBCで放送された話ですが、まだ戦争が始まる前、日本から移住していたタグチさんという家族がありました。 タグチさんはクリスチャンで、戦時中の扱いにもひと言の不満をもらさず、絶えず感謝の思いで満たされていたそうです。 その子息であるヨシ・タグチ博士は、3才の時に移住してきて、今73才。 収容所で育ったのですが、今のモントリオールで高名な存在。 街を歩くと絶えず市民が挨拶するそうです。 毎日3件の前立腺の手術を行い、60人の患者を診察。その上でマッギル大学で医学部や医局員の指導を行い、かたわらキリスト教や禅について数多くの著作を英語とフランス語で上梓。 タグチ先生に診てもらう患者は「自分だけがタグチ先生の患者。 先生は自分の親友」と思い込んでいるのだそうです。 収容所からこんな素晴しい日系人も生まれたのですね。

カナダの日系作家はコガワさんのほかにもいますが、もうボツボツ戦時中の亡霊から卒業して、人類の普遍的な情感を感動的にうたいあげる、イギリスのイシグロカズオのように芸術的香り高い作品を著わす作家が生まれてもいい時機だと期待しているのですが。 

(06/12/14)

Saturday, December 09, 2006

病室のこと (2006/12/09)[s]

こちらは鉛色の空がおおいかぶさり、時々薄日が差す程度です。 私の健康もそんなところです。 

このところちょっと頑張って、ケベックのことなど小文を書いていますが、届いているでしょうか。 メールマガジンの部数がドンドン減って、今549。 アロハさんも山田耕嗣さんも、井上さんと時々交信しているらしい野邑さんからも、メールマガジンが届かなくなったという知らせがありました。 かねてやりとりしている友人にしてそうですから、何時の間にか来なくなったという人が200人ばかりいるのかもしれません。 ワイフは「気にすることは無いでしょう。 いつでもやめればいいのだから」と言いますが、線香花火が消える直前パーッと明るくなるように、私も疲れを覚えながらもついつい書いているのかもしれません。

入院した病室のことはお知らせしましたかしらん。 4人部屋でした。 一つ一つのベッドはカーテンで仕切ってあるのですが、声は筒抜け。 それはともかく、男女同室のCOEDなのには驚きました。 私の隣は80代の盲目の女性。 食事も1人では出来ないようでしたが、可愛い性質なんでしょう。 看護婦もよく相手になっていました。

私の向かい側は、私と同年輩の男性。 大学の先生らしく、キャンパスのことを話していました。 点滴についても一家言をもっていて、看護婦に講釈。 枕元の電話がルルルルと鳴ると、受話器を取り上げて、吠えるような声で「ドント シャウト!」とまず一喝。 そしておもむろに「誰か」と訊くのです。 「サンキュー」と言う声も聞こえませんでした。

斜め向かいは、麻薬中毒みたいな若い女性。 酸素吸入をしていましたから肺炎なんでしょう。 ミルクがぬるいの冷たいのと、これもウルサ型。 英語が自由だから文句も言えるんですね。

メインの医者は中国系でしたが、先生のお供でついてくる若い医者も、彫りは深いが白人ではありません。 計6人の医者がチームで患者の病状を討議するようでした。 

その他にインターンが2人。 その中に白人の容姿も心も優しい女医さんがいて、しばしば私の全身を聴診器や打診で丹念に調べてくれ、ソフトな声で話してくれます。 こんな心の美しい先生がもう少しこの世の中に居たら、すみにくい憂き世も極楽に近くなるのだがと思ったことでした。  

まあ、私も、大学の先生みたいに看護婦に嫌われていたかしりませんが、英語が不自由なので、ボディランゲージも読み取れません。 夜中は、誰も鼾をかかないので静かでした。 私は鼾をかいたかもしれません。 自分では聞こえないので知らぬが仏です。

退院して、自分のアパートに戻ってきて、ノビノビしていますが、やはり疲れがあるようです。 それでも薬局の薬剤師が、「この前より元気そうだ」と言っていたので、よく気のつくファーマシストだなと感心しました。

ではまた。 貴兄も奥様もおくれぐれも大事に。 (06/12/09)

ケベック今昔[s]

「イノさんへのご返事」

ご指摘のように、ケベックから3人の自由党党首が続き、その前のトルドーもケベックの出身、それにマッケンジー・キングの21年の長期政権をいれると、近代カナダでは自由党の神権政治がまかり通っているような印象が残ります。

その合間合間に保守系政権党が顔を出すのですが、マウルーニー進歩保守政党政府の10年は例外でした。 しかしマウルーニーとキム・キャンベルの進歩保守政権は苦いスキャンダル的な後味を残して消えました。

日系人と自由党との関係はどうでしょうか。 日系人に迫害を加えたのは自由党のキング首相とBC州の政治家でした。 キングは首相になる前からキャリア官僚として日系人に不信感を抱き排日の政策をとっていました。 そして太平洋戦争が終わっても、アメリカは即座に日系人をカリフォルニアなどの西海岸へ帰したのに、カナダ政府は、1949年まで日系人の西海岸への帰還を許しませんでした。  

前にもお伝えしたように、キングは広島の原爆投下を知って、「ヨーロッパ人の上に落ちなくてよかった」と日記に書いています。 生涯独身で、死んだ母親と霊媒を通じて交流し、国政についても相談していたそうですが、そういう人物がカナダの権力のトップに坐っていたのです。 

戦後45年経って、マウルーニー首相の進歩保守党政府は、日系人に対して謝罪しました。 アメリカのレーガン政権程の金額ではなかったのですが、アメリカにならってカナダ政府も日系人に補償金を出しました。 進歩保守内閣の中には、日系人に対する補償に反対した閣僚もいましたが、それは東欧から移住してきた、元フィギュアスケート選手でした。

中国人も、戦前から、人種偏見に基づく差別を長い間受けていたのですが、今年になって、ハーパー首相も、正式に謝罪しました。

かなり前になりますが、マニトバで、日系人の大学教授が、自由党から選挙に出馬したことがありました。 その時日系社会はソッポを向いたようで、誰も応援しなかったようです。

現在の保守党内閣では、ベブ・オダという日系女性が入閣しており、ヘリテージ大臣として文化行政を担当しています。

ディオンは、ケベックでどう受け止められているかというご質問ですが、実はディオンを誰よりも憎んでいるのは、ほかならぬ一部のケベック人なのです。 何しろ、ディオンは、ケベック独立に反対する統一カナダ陣営のチャンピオンです。 十代の少年時代には、独立論に傾いていたこともあったようですが、ムッソリーニが言ったように、「若い時に共産主義に傾かないのはバカだ。 そして年を取ってからも共産主義にしがみついているのもバカだ」いう言葉を思い出します。  誰でも若い頃は独立ケベックの理想に一度は燃えるのでしょう。 しかしディオンもその後研鑽を重ねヨーロッパから祖国を客観的に見て、統一カナダが正しいという考えに固まっていったのでしょう。

ですからディオンを嫌っているのは、ケベックの若い一部の独立主義者だろうと考えます。 彼らからみれば、ディオンは裏切り者の叛逆者なのかもしれませんね。 

しかしケベックでも、年齢的に熟してきて、政治感覚にも幅がでてくると、フランス語系市民でも、ディオンに同調する向きも増えるのでしょう。 その数は今のところ若手の独立主義者を上回っているようです。 それにいくらケベック独立に反対だといっても、ディオンは正真正銘のケベックの申し子なんですから、分別あるケベック人ならディオンを後押しするのが自然ではないかと思います。

政治家にカリスマが求められ評価されたのは過去のこと。 トルドーマニアを巻き起こしたカリスマ旋風は40年前でした。 イノさんの言われるように、今は訥々とした話し方に誠実さが認められる時代が来ているのでしょう。 

しかも、独立を標榜する政党のパルティ・ケベコアの党首は自他ともに認めるゲイ。 幾らケベックが開いた社会とはいえ、年輩のケベック人が若いゲイのリーダーシップを受け入れるほど受容性に富んでいるでしょうか。 連邦議会にあって独立を目指すブロック・ケベコアの党勢も、今は衰え気味のようにみえます。

(06/12/08)

Tuesday, December 05, 2006

自由党の党首にS.ディオン (2006/12/05)[s]

「党首不在が長かった自由党だが、9ヶ月かかってようやく選出したね」

「自由党は万年与党、万年政府党と言われているから、今保守党に預けてある政権も返してもらう日も近いだろう。 そうすると、新党首のディオンさんは、首相のポストに最短距離にあるわけだ」

「それにしても、選挙の経過はドラマチックだったね。 ディオンさんは、出馬の段階では4位。 17%の票しか取れなかったのに、次の選挙では、2票の差で3位に。 この時涙を呑んだケネディ候補が、自分のグループの票をディオン候補に振り向けたのがドラマの山だった。 そして本命とみられていたイグナチエフ教授を逆転で破って、55%を獲得、首位に躍り出た。 5千人の代議員の潮が、僅か半日のうちに大きく転換したんだね」

「これで、3人連続して、ケベックから党首を出したことになる。 3人もケベック出身が続くということは、当初マイナス要因とされていた。 それにディオンさんは英語がペラペラではない。 まるで昨日ヨーロッパから移民してきたばかりの人のように、タドタドしく話す」

「でも、カナダ生まれのカナダ人だろう? たとえフランス語が母国語とはいえ。 それに大学で教えていた知性派だ」

「その訥弁が、誠実そうな人相とあいまって、信用のおける人だという印象を与えたのかな。 英語圏カナダ人の受けも、けっして悪くない。 好意的で、まずは蜜月ムードだ」

「最初は、英語が不自由ということが重大なハンディキャップイとされて、同僚の議員達も党の領袖も見放していたのだが、5千人が一堂に会して醸し出すダイナミックな心理のうねりが、意外も意外というどんでん返しになったなあ」

「ケベック市で51年前に生まれ、同市のラバル大学で政治学を専攻した。 その後パリで社会学の博士号を取って、モントリオールやパリで教えたが、ワシントンのシンクタンクの仕事もしていたようだ。 父親は憲法学者。 奥さんもミリタリーカレッジで教える学究一家だ」

「それに顔つきがいい。 いわゆる政治家の擦れた感じがなく、正直で信念の人という評判だ。 今でも、ブリーフケースでなく、ルックサックをかついで動き回っているそうじゃないか」

「ただ母親がフランス人だから、生まれた時から加仏の二重国籍だ。 今の総督だって、結婚してフランス国籍を取得していたのが問題になったからなあ」

「議員としては10年の経歴だが、クレチアン首相に登用されて閣僚となり、クレチアンの政敵だったマーティン首相にも見込まれて環境相となった。 愛犬の名前が「京都」ときけば、環境問題に対する打ち込みが感じられて嬉しいね」

「まだ党首になって3日目。 これから我々もステファン・ディオンについてもっともっと知ることになるだろう」

(06/12/05)

Sunday, December 03, 2006

お見舞い (2006/12/03)[o]

またまた、入院とは、しかも胃潰瘍とは。驚きました。
先ずは、お大事に。

お互い年は取りたくないけど、これだけは貧乏人も金持ちも平等にきてしまいます。

小生、卒業して勤めて4ヶ月で十二指腸潰瘍になり、未だに手術せず大事に抱えています。
この一病息災で長生きできたのかとも思いますが、潰瘍は夜中に痛み、背痛はするし、苦しい病気ですが、いまは日本ではオメブラゾンという潰瘍治療薬を飲むと直ぐに痛みも取れ、楽になれます。

昨年少し痛みが出て、カメラをのみこの薬の厄介になりましたが、潰瘍は変形癒着したまま50年ちゃんと残っていました。ただ、再発はなく依然としてアルコールを飲んでいます。

胃潰瘍はそんなことで心配無用、直ぐ良くなります。
いくら鉄の胃壁でも、胃の酸はすごいものらしく、貴兄もそれにやられたのでしょう。

今年は全くついていないことが多く、早く新年がくることを願うばかり、年初のいい感じの始まりは一体、何だったのかと思います。

貴兄も来年はいいことありますよ。
それと仕事を何時辞めるのかという事も難しい課題です。
コンサルの仕事を辞めると宣言したら途端に、体調不良が続き参ったので、これも関係ありかな、と一時は考えましたが、どうもこれは疲れが出ただけ、貴兄も疲れないようにのんびり、井上氏に義理を欠いても、ゆっくりやってください。
そんなことはあとから説明すれば済むことですし、年をとったら義理を欠くくらいの付き合いで丁度いいのです。
「このごろ」にカナダの記事を書くことにこだわらないこと。

もう、小生仕事もなく、12月から遊びの日々に入りました。
家事専門で暫くいきます。私信ばかりでごめんなさい。

貴兄も冬は寝るつもりで、穴ごもりの支度をどうぞ。
寝て、薬を飲んで、消化の良い物をとっていれば直ぐ治ります。
どうか、潰瘍の先輩の言を信用してください。 (06/12/03)

Saturday, December 02, 2006

今度は私がダウンしました (2006/12/02)[s]

体調の回復がみられたとの朗報、何よりです。

今度は、私がダウンする番になりました。 また4日入院して、昨晩退院して帰ってきたところです。 病院では、ジュースしか与えられなかったので、体力の低下を覚え、今日も一日ソファーで寝転んでいました。

火曜の朝、夜中に気分が悪くなり、24時間サービスのナースラインに電話して相談したところ、ERに行った方がよいと言われて、病院のイマージェンシーに駆け込みました。 幸い直ぐ診てくれて、「顔色が悪いから内出血ではないか」と言うのですが、心当たりがありません。 その日の午後になって、胃カメラで検査したところ、胃潰瘍による出血だという診断。 私は、かねがね胃だけは丈夫。 鉄ではないがブリキで出来ていると自慢していたくらいなので、信じられませんでした。 胃潰瘍なんて、明治の文人がなる病気。 昭和のアプレゲールには縁が無いと思い込んでいました。

毎日ジュースでは元気も衰えます。 今日も一日ゴロゴロしていました。 体調が悪いと、目も見えなくなります。 留守中に井上さんから沢山エッセーが届いているのですが、それを配信する気力もまだなく、お休みです。

こちらの寒波がモスクワより寒かったとは知りませんでした。 11月にこんなマイナス12度の気温になったのは記録でしょう。 いつも厳寒のトロントや東部が逆にプラス15度。 まさに気違い天気です。 

貴兄もどうかお大事に。 (06/12/02)

大分良くなりました (2006/12/01)[o]

モスクワより寒かった寒波はおさまりましたか?
小生、1ケ月を経過し少し回復、このぶんなら、9日から封切られる「硫黄島第2部」は近くの映画館なので、車で行けそうです。

原因がはっきりしない病気でかなり参りましたが、なんとか日常生活はこなせるようになったのでご心配なく。
あとは、のんびり直します。

少しはブログに載せられるような話をまた書きます。

とりあえず、回復のご報告まで。 (06/12/01)