Thursday, June 30, 2005

色々有難うございました

夏休み前の最後の、メールです。
ビデオをお送りいただいたそうで、有難うございます。
楽しみにしています。
遠く離れた貴兄に、私事を打ち明けられるのもおかしなことかも知れませんが、メールの有難さと、貴兄のメルマガのお陰と感謝しております。それに、なにしろ貴兄の人間性です。
いい友を持てた有難さを痛感しています。

今日は、一日完全休養です。
明日大事な会議があり、これを乗り越えれば、少しのんびりと出来そうです。

井上氏から、ぺリリューの話などを書くように励まされましたが、次回の本はいつ出せるか全く分りません。下手な文章でも暫く、書きだめするしかありませんが、生きているうちは書き続けるつもりではいます。拙いメールを読んでいただけるだけでも感謝です。
なお、ぺリリューで約1万、アンガウルで約2千の日本兵が玉砕し、米軍は両島で1万2千の死傷者を出したといわれています。
数に間違いがあれば、訂正します。

大場さんからも丁寧なメールをいただき、感謝しております。
父上を、肉親をこうして亡くした方々が、戦地を訪れるとき、その気持ちはいかばかりか、推察し切れません。

パラオで父上を亡くされたM氏に同行したとき、慰める言葉が全く無いことに小生は気づきました。
何を言っても無駄なのです。
黙って頭を下げることしかないのです。

命を奪われることの痛切さを、最近の人殺しを平気でする若者特に学生に、判って貰える時がくるのかと思いたくなります。

もう、修身も道徳も無くなってしまった最近の日本に、半分愛想を尽かしたくなった日本人も多い昨今、明るいニュースが待ち望まれます。

9月は、こうした話で始めたいと、祈願しつつ。(05-6-30)

Wednesday, June 29, 2005

休むことにいたしましょう

つかぬことをおうかがいしますが、意味不明のメールがそちらへ届かなかったでしょうか。 実は、メールを書きかけて、セーブしないで席をはずし、暫くして戻ってみたら、画面から消えていました。 もし、そうだったとしたら、御免なさい。 改めて書き直します。
お心のうちを打明けていただいて、ありがとうございます。 私も、近年、心身の疲れをとみに覚え、特にコミュニケーションの衰えを感じます。  家族の間柄でも、子供同士がしゃべっている内容は理解できず、仮にわかってもたいした内容ではありませんので、気にしないことにしています。
心身の衰えといえば、実は、昨日、郵便局から、貴兄宛てに、ビデオを一つ送ったのですが、ボンヤリしていて、プラスチックのクッション材で包むのを忘れ、そのまま封筒に入れて、送ってしまいました。 長いこと、ビデオを包装したことがなく、手順を忘れてしまいました。 これも、障害の一つの現れかと思います。
ですから、もし壊れた状態で届くとしたら、申し訳ありません。 中味は、アメリカのカメラのレンズを通してみた「太平洋戦争」の記録です。 映像には、当然日本のカメラマンの撮った部分も入っていると思いますが、それをアメリカ人が編集したものとなっています。
冒頭に近い部分で、サイパンのスーサイドKリフが出てきますが、このシーンを撮りながら、アメリカのカメラマンも、手が震えたのではないかと思います。 それほど強烈なインパクトが、静かな画面から伝わってきます。
私どもは、7月1日にサンフランシスコに向け出発。 10日には戻ってきます。 モントリオールに向かうのは、それから3週間後で、その間は自宅で夏休みです。
お互い仕えるべき主君を持たぬ浪々の身。 ゆっくり休むことにいたしましょう。 (05-6-29)

小生も休みます

今日は全くの私信。

理由が良く分らないのですが、小生2~3日前より思考能力が急におとろえ、文章作成も困難になり、昨日のメールを作成するのに1時間もかかって、しかも出来た文章は全く小生の考えたものと合わないのです。文章が頭に浮かばなくなったのは初めての経験で、自分で怖くなりました。

仕事と家事と暑さと、もろもろの要因のせいとお思いますが、今日は家内を車で病院に送りに行く日なのに、家内から休めと宣告され、家内は電車で出かけていきました。

丁度、貴兄も夏休みですが、小生も休まねばならないようです。

少し休めば回復すると思いますが、こんな経験は初めてなので戸惑っています。
やはり、歳なのでしょうか。

気分転換が下手なのが小生の弱点なので、この先どうするか寝ながら考えます。
文章作成能力が全くなくなったのが、一番ショックです。
今まで文章を書くのに困ったことがなかったので、昨日のメールには本当に参りました。

それでは、良い夏休みを奥様と一緒にごゆっくりとお過ごしください。小生もこの仕事が終わったら、近くの温泉にでも出かけます。暫く、お互いに、休みましょう。 (05-6-28受)

Tuesday, June 28, 2005

ご指摘どおり

[阿部さんから「ご指摘どおり」のメール拝受]

天皇ご夫妻の戦地訪問は、3度目とのご指摘、そのとうりです。
早速、訂正させていただきます。

それにしても、昭和天皇は何故、サイパン等に行かなかったのでしょうか。 周りが止めて行けなかったのでしょうか?

天皇が戦争犯罪に問われなかったのは、マッカーサーの対日政策のお陰だったのは皆知っていることですから、現天皇はそれを知ってて、もっとつらかったと思います。

ガダルカナル、パプアニューギニア、アッツ島など行きたい所はたくさんあり、ツアーを申し込んだところも何ヶ所かありましたが申し込みが少なく、催行人員に殆ど達しません。
最近は、ソロモン、ニューギニアの旅は、全く無くなりました。
割高な個人旅行でしか、行く方法が無いのです。 パラオはその中では行きやすいので、行きたい方にはお薦めします。

大場さんがガ島も行かれているのを拝見し、是非、詳細をお伝えいただければと思います。

あの無益な戦いを大東亜共栄圏の為と称し、美化した軍部を許すことは、絶対に出来ません。

毎年4月と5月には戦災で焼かれた我が家の焼け跡で、呆然と佇んでいた親父の姿がおもいだされます。

どれだけの人間が戦争によって被害を受けるか、民族、宗教、国家利益など戦争を始める理由は多々あるのでしょうが、絶対に止めてほしいものです。

北朝鮮がいつ目覚めるのか、外交下手の日本としては最大の関心事です。

関東地方は明日から梅雨模様のようです。

もう少しで、貴兄の夏休みが始まりますね。どうか、有効にお使いください。
眼は、何度でも、違う医者にも診てもらって、治せる方法を模索してください。
これが、小生の願いです。

阿部基治(2005/06/28受)

Monday, June 27, 2005

「阿部さんに」という投書

いろいろ難しそうなお仕事をかかえ、その上体調も万全ではないとお聞きし、案じております。
今日、「阿部さんに」と題した投書が入りました。 読者ラウンジにも載せるつもりですが、とりあえず、貴兄にご送付します。
9月にはスイスですか。 世界中のホリデーメーカー達の波が少し引けたところで、土地の人達も普段着に戻って。素顔をみせるスイスの町や山や野原もいいでしょうね。
= = = = = = = = = = = = = = =
天皇・皇后ご夫妻のサイパン島訪問が激戦地あとを訪問するのは、沖縄に次いで二度目との阿部さんのコメントを拝見しましたが、僕の記憶では硫黄島にも行かれたと思います。 当時会社勤めでたまたま目にした日本の新聞に、お二人の短歌が出ていたのを見て、どのような目で見られたか興味を持ったので書き写しておきました。 その手帳が出てきたので阿部さんにお伝えしたいと思います。
天皇御製    硫黄島 二首   
精根を込め戦ひし人未(いま)だ地下に眠りて島は悲しき   
戦火(いくさび)に焼かれし島に五十年(いそとせ)も 主なき蓖麻(ひま)は生ひ茂りゐぬ

皇后陛下御歌 
慰霊地は今安らかに水をたたふ 如何ばかり君ら水を欲りけむ                       (硫黄島)

天皇の胸のうちは分かりませんし、立場上の表現もあるのかも知れませんが、美智子皇后の歌には思わず胸に来るものがあったことを思い出します。 その後日本紙に接する機会が少なくなりましたが、たまたま目にした数首を書き留めていましたので書き添えます。
天皇 人々の過ごせし様を思いつつ歌の調べの流るるを聞く
皇后 移り住む国の民とし老いたまふ 君らが歌うさくらさくらと
またその頃の皇后の歌に次のようなものがありました。
皇后 高齢化の進む町にて学童の数すくなきが鼓笛をならす
おそらく沖縄訪問時の歌もあると思いますし、今回のサイパン島訪問についても歌を詠まれると思います。 僕は皇族には関心がありませんが宮内庁は虫が好きません。
K.S.(2005/06/27受)

メールが遅れ申し訳なし

いろいろご迷惑をかけ、申し訳ありません
このところ、難しい仕事がありその対応で時間をとられ、思うようにメールも打てないのです。

しかも体調も崩し散々です。

まず、パラオの話は前半はともかく後半は読み返しもしない文章で、本に書くときは全面見直しです。
でも、天皇がサイパンに行く前に、敗戦記念日の前に、貴兄の夏休みの前に送りたくて、不完全のまま送り、済みません
でした。

井上氏の日高義樹氏との面談記録、読んで驚き、今日、テレビ東京で元CIA長官と日高氏との面会のヴィデオで同じ話が出てきて、また驚きました。

対北朝鮮の問題は、北が濃縮ウランやプルトニュームをテロリストに売る前にアメリカは手を打つ、すなわち攻撃するだろうとの見方が圧倒的でした。
また、戦争がおきる確率がかなり高そうです。アメリカは空母6~7隻を用意しているとのこと。

世界からキムジョンイルのような馬鹿がいなくなる日がいつ来るのでしょうか。情けないですが、人間はやはり、救いようがありません。

柳谷さんに「草原の輝き」の経験があった話。やはり、事実は小説より奇なりです。でも、彼女はまだ輝いているみたいで羨ましい次第。優雅に老後を楽しんでおられる様子が、メールにも感じられます。

貴兄も、どうかこの夏休みに眼を診断してもらって、手術でも治す方法を見つけてください。
贖罪は眼が良くなったらよんでください。

この次に本を出せるとしたら、活字の大きな本にします。
貴兄だけでなく、複数の友人からこの要望が出ています。

小生の持っていったお茶をまだ飲んでおられると聞き、驚きました。もし、必要があれば送ります。

小生は、ゴマと発毛剤があればいいのですが、さすがに薬はもう効かなくなったようです。
9月にスイスへ2週間行ったらもう大旅行も終わりかな、と思います。
行きたい所はあっても、旅の疲れは年々増すばかり。金の消耗とともにこの増加には耐えられなくなっています。

海外から国内旅行にいつ切り替わるか、なんとかあと2~3年は頑張りたいですが。

真夏の暑さの関東から    

Sunday, June 26, 2005

草原の輝き

この前の日曜日、井上さんと柳谷Chiekoさんのお宅にお邪魔したのですが、その際著書を頂戴しました。
私は、例によって、読めないのですが、家内が「面白い」と言って読んでいます。 
そして「草原の輝き」が出てくると聞いて、こちらが驚きました。
柳谷さんは、高校時代の同級生と結婚されたのですが、その亡くなったご主人(享年56才で7年前逝去)と婚前に結ばれるに到った事情は、「草原の輝き」に影響されたからだというのです。
私もそれを聞いて、その本を読んでみたいと思うのですが、いつの日か、便利な装置ができて、読書の楽しみも再び得られることと思います。  「贖罪」を是非熟読したいものだと念願しています。 主人公の生き方にたいへん魅かれますので。

返事(05-6-25)

お忙しい中を縫って、「旧戦地訪問その2」をお送りいただき、すみません。 有難うございました。 
机上リサーチでなく、炎熱下のパラオ諸島を、足を使って調べた記録は、なんといっても重みが違い、迫力があります。
まもなく終戦記念日がめぐってきますが、貴兄の文章を読むと、わだつみの声が呼んでいるような気がします。 
我々より数年先に生まれたばかりに、本意ならずも南冥の大海原に散っていった若武者達の出で立ちの気持ちが、悲痛に響くのですが、貴兄のリサーチとリポートは、60年経っても、訣別の悲哀を蘇らせてくれます。
感謝します。

Saturday, June 25, 2005

旧戦地訪問その2(05-6-25受)

メールが遅くなりごめんなさい  いろいろ仕事など入って時間が取れず あせりました6月中に送れてほっとしています

パラオは現在はパラオ共和国という独立国家ですが、敗戦後の一時は、アメリカの統治領だったこともあり、通貨はUSドルです

パラオ国際空港は パラオ本島のバベルダオブ島にありますが、この島旧海軍の通信隊跡がありますが、パラオのメインの島ではなく この隣のコロール島が昔も今もメインになっています

ここに旧海軍や陸軍の司令部があり、隣のアラカベサン島とともに、軍事基地であったわけです。

アラカベサンとは日本橋と呼ばれているコンクリートの橋でつながっています。

1944年[昭和19年]3月30日に米軍の猛烈な爆撃があり、島はほとんど建物がなくなったようで、現在は南洋神社くらいしか往時を偲ばせるものはありません。

この爆撃のひどさが、連合艦隊司令部をフィリッピンへ移そうとという基になったといわれています。

たまたま、戦艦武蔵は前日にコロール湾を出航していて難を免れたのですが、パラオに米軍が上陸するのではないかという見方は、かなり強かったと言われています。

そこで、浮き足立った司令部は夜中にフィリッピンへの移動を考えます。

アラカベサン島には現在のパラオパシフィックリゾートホテル<通称PPR>の脇に、水上飛行機基地があります

このPPRにたまたま小生は泊まり、この基地を見に行ったのですが、1934年にこの水上飛行機の基地を作ったとの英文の碑文が埋め込まれていました。

そして、海に向かっての坂ースベリと呼ばれているものーの位置や吉村氏の小説の中で、飛行艇が北へ向かって飛び立ったとの記述から、この位置からでは、北へ向かうのは無いと判断しました。

そこで、現地の旅行代理店の方などに他に水上飛行機の基地がないか聞いたのですが、海軍乙事件どころか、南洋庁のことも知らない人が多く、がっかり。

日本人はかなり行っているのですが、ダイビィングや釣りが目的で、戦争のことなど関心が無いのです。

それでもやっと、現大統領府の近くでミューンスというところにもう一つ基地があることが分ったのですが、そのときはもう帰国が迫っており、行く時間がなくなってしまい、見ることが出来ませんでした。

ただ、地図から見ると、間違いなく北に向かって飛びたてます

1944年3月31日、サイパンから呼び寄せた飛行艇がこのミューンスの基地に夜中に着水。

このとき、まだ爆撃があると思った海軍はあわてて、飛び立ちたいと三つのミスを犯したといわれています。

一つは、燃料を補給しなかったこと・

サイパンから飛んできたのですから、当然減っているのにフィリッピンまでなら充分もつと、補給しなかったのです。

悪天候のため、迂回せざるを得ず、そのため燃料不足になったことは、2機目の飛行艇が燃料切れで、不時着せざるを得なかったことからも明らかです。

そして二つ目、古賀司令官の乗った飛行艇の通信機に水晶箔を入れるのを忘れたという話があります。

これを入れないと当時の無線機は正常に作動しなかったので、古賀艇からの無電が届かず、また他機からの呼びかけにも応答しなかったのです。

そして、最後は二機目の参謀長の乗った飛行艇のピトー管の覆いを外すのを忘れたことです。

これは、飛行艇の速度を測るもので、翼の先端にあります。
この覆いをはずさなかったため、二機目は現在位置の掌握が充分出来ず、不時着に至るのです。

こうした事実は2,3機目の搭乗員が生き残ったため、分ったことです。

かくして悲劇は起こりました。

島田海軍大臣に疎まれて、予備役にされた堀悌吉中将が「山本と古賀の二人が死んだら、もう日本の海軍はおしまいじゃないか」と嘆いたと言われていますが、この乙事件で海軍の終焉は見えたといえます。

PPRの基地跡で私はここから飛行艇が飛び上がる姿を想像しましたが、それは悲しいものでした。
慌てふためいた海軍の情けない姿だったからです。

最後に、パラオに行ってみたい方のためにアドバイス。

コロール・アラカベサン島はもう戦争の面影は殆ど見られません

日本語がどこでも通用しますから、タクシーで行きたいところにいけます。

物価はやや高め、日本食は寿司でも何でもあります。

ぺリリュー島は120ドル必要。
最低3名いないと行けません一人なら360ドル払えば行けることになります。

現地の係員は戦争のことは余り知りません。
事前によく調べて行った方が良いでしょう。

景色は最高。沖縄から移住した人もいるくらいです。

戦争はこんな素晴らしい土地も日本から奪いましたが、独立国のパラオを極楽から見ている英霊を、信じ、慰めたいものです。

阿部 基治 (2005/06/25受)

Wednesday, June 22, 2005

旧戦地訪問を拝誦(05-6-22)

ただいま、「旧戦地訪問その1」を拝受。 一読して、その遍歴の内容のすさまじさに衝撃を受けています。 ほとんどが、私の知らないことばかり。 戦時中、「古賀元帥殉職」という新聞の大きな見出しに、「なぜ『殉職』なのだろう」と不思議におもったものです。
これからもう一度ゆっくり精読します。 どうも有難うございました。

旧戦地訪問その1(05-6-22受)

約束のメールを送ります。遅くなり申し訳なし、しかもその1だけです。

私が、戦地を訪問することを目的に旅を実行したのは、このパラオが初めてでした。
太平洋の西カロリン群島パラオ諸島、戦前、委任統治領で日の丸が掲げられていたところです。そして、南洋庁の本庁があったところです。連合艦隊の基地でもありました。
場所的にはサイパン・グアムとフィリッピンの間と思ってください。

パラオに行きたいと思ったのには、三つの理由がありました。
一つは、南洋庁の本庁所在地だったこと。
二つ目は、海軍乙事件の始まりの地だったこと、
三つ目はこの諸島のアンガウル、ぺリリューの二つの島が玉砕したことです。

海軍乙事件は、吉村昭氏の本に詳しく書かれていますが、山本五十六の後、連合艦隊司令長官になった古賀峰一が司令部を移すべくパラオからフィリピンのダバオに向かって、1944年3月31日の夜中、97式飛行艇に乗って飛び立ち悪天候のためそのまま行方不明になった事件です。

二機目の飛行艇は参謀長が乗っていましたが、これはダバオまで行けずに、途中で不時着、原住民に捕らえられ、しかも持っていた暗号帳、連合艦隊のその後の戦略の全てを書いた文書を盗まれ、コピーされ、その後の海軍の全作戦は、その内容、作戦に関与する艦船の名前から、航空機の数まで、全部知られている状態で戦い、全滅するのです。
この文書をコピーされたことすら、海軍は疑っても信ぜず、そのままにしていたのです。
もっともアメリカはゲリラを使って書類を盗んでコピーし、また丁寧に海中の飛行艇に戻していたのです。

そして皮肉にも、三機目の飛行艇だけが無事にダバオに到着。

なお海軍甲事件とは、山本五十六の搭乗した一式陸攻が暗号を解読されたために、ブインの近くで撃墜され、山本連合艦隊司令長官が亡くなった事件のことをいいます。

三つ目の理由の二つの島の玉砕戦は、たまたまこのアンガウルで玉砕戦に参加し、最後に単身アメリカ軍の司令部を攻撃途中に撃たれ、人事不省のまま捕虜となった「船坂 弘」<舟へんに公を書くのが、正しいのですがこのPCではその船の字は出ません>という方の書かれた「滅尽争のなかの戦士たち{英霊の絶叫と同じ本}」「血風ぺリリュー島」を読み、玉砕戦の凄まじさを少しだけでも理解したからです。
[なお、船坂氏は三島由紀夫氏に本の序文を書いていただいたお礼に名刀関の孫六を贈り、その刀が四谷自衛隊本部での三島氏自決事件に使われたことでも名を知られています]

本当のことは、玉砕した方しか分らないでしょうが、船坂氏はアンガウルで捕虜となった後、ぺリリューの収容所に収容されたため、二島についてかなり正確な記録を残されたと本を読んで感じました。

そして何よりも小さなぺリリュー島で2ヵ月半近くも戦ったことに驚いたのです。
サイパンでも3週間、他のテニヤン、ガアム、など孤島の戦いはせいぜい2週間程度しかもたなかったのが現実です。
沖縄でも2ヵ月半です。

食料も水もそして弾薬もない中で、何故2ヶ月以上も戦えたのか、その戦闘は一体どんな島で行われたのか。
それが知りたかったのです。

オプショナルツアーでは、ぺリリュー島しかありません。
アンガウルはあきらめることにしました。
3名いないとツアーは催行しないのですが、たまたま、ぺリリューからニューギニアに船で運ばれる途中に父親が戦死されたというMさんという方が奥様同伴で来られて、やっと出発できました。

パラオの首都のあるコロール島から高速ボートで約1時間、50キロほど離れたぺリリュー島にいく途中で、ボートがスピードゆるめました。

海中に曲がったプロペラが見えます。ガイドの説明ではゼロ戦の不時着したものとのこと、60年を経て機体はその原形をかなり留めていました。戦地が近くなった感じがしてきました。
浅瀬とさんご礁が多いことがこのゼロ戦を残していた要因と思われます。

実はぺリリュー島には中川束{ツカネ}さんという旧海軍の軍人の方が、「大東亜戦争で犠牲になった人々の慰霊のために半生を捧げたい」と1992年に移住しておられると聞いていました。

ぺリリュー島に着くなり、私は出迎えの現地の方に「中川さんにお逢いしたい」と願い出たのですが、答えは「中川さんは4月に<2004年>亡くなりました」、という無情の返事でした。
7月に私は行ったので僅か3ヶ月前に亡くなっておられたのです。

同行したMさんが恐る恐る「花束が欲しいのですが」と切り出したころ、なんと原住民の方がさっとジャングルの近くに行き、花を摘んでくれて束ねてくれたのです。
ここは年間2~3千人くらいは遺族の方が訪れるとのことで、原住民の方もお参りには花が欠かせないものと、知っているという感じでした。

慰霊碑は同一地区にいくつもあり、前述の船坂氏の建てたものを含めて数ヶ所あります。部隊のもの、遺族会のもの、さまざまで個人のお墓も数多くありました。

持っていった花や食べ物、お水などを少しずつお供えし、小さなイクロバスで島内の観光?に出かけました。

アメリカ軍の爆撃、砲撃そして上陸後の火炎放射器などで全島丸裸になり、地肌が露出している写真が、本には載っていますが、現在は全島緑に覆われ、ジャングルが山を覆います。
戦争で原住民は畑を焼かれ、椰子の木を失い、家を爆破され本当に無一文になったのに、我々に恨み言の一つも言わず、バスを運転してくれました。

日本軍の司令部らしき鉄筋コンクリの建物は、骨格は残っており、風呂やトイレの跡も識別できます。
島の中は米軍が作ったのでしょう、素晴らしいコンクリの道路が張り巡らさせており、島内全部を見ることが出来ます。
二本あったはずの滑走路は一本になり、一本は道路になっていました。民間機がパラオから今も飛んでいます。

米軍の水陸両用車、日本軍の小さな戦車、洞窟内の大砲、
戦いの遺物はあちこちに見られます。

日米の兵士の死体の血で染まったことから、オレンジビーチと呼ばれた浜辺は、静かな波が打ち寄せていました。
ここで暫く立っていると、あの60年前の戦いは一体何だったのかという思いに包まれ、自然に涙ぐんでくる自分と、ここへ旅として来られた現在の幸福感が複雑に入り混じりました。

このビーチで、他のバスがきてこれには白人の方が3人乗っていました。
この方々とは、そのあとも何回か一緒になる機会がありましたがとうとう、一度も我々のほうに顔を向けることはありませんでした。

恐らく、上陸した海兵隊の遺族の方と思われましたが、1944年9月15日から11月24日の玉砕まで約1万の日本軍が戦い、全滅したのに、米軍も約1万2千の死傷者を出し、ニミッツ将軍をして「こんな島を本当に占領する必要があったのか」と嘆かせたほど米軍の損害は多かったのです。

その遺族が日本人の顔も見たくない、という気持ちは凄く良く分り、Mさんもなるべく顔を向けないようにしている感じでした。

何故日本軍は70日以上も戦えたのか、その答えは500以上といわれる洞窟陣地にありました。
長さ7キロ弱、幅3キロ弱の小さな島に500以上の洞窟を掘り、地下でつなげたため、爆弾も砲弾も届かず、少ない損害で戦えたのです。

米軍は火炎放射器、手榴弾で攻撃した後、ブルドーザーで一つ一つ洞窟を埋めていったそうです。
したがって、表から洞窟を見られることはまずありません。
山肌の2~3メートル高いところに黒くなっているところがあれば、そこが洞窟の入り口なのです。黒いところは火炎放射器の炎があたったところです。
焼かれ、生き埋めになって、日本軍は全滅したのです。

こうして、何ヶ所か掘り起こされた洞窟を見ることが出来、その中に、守備隊長中川大佐の自決あともあります。

緑に覆われた中で、その戦跡は我々に現在の日本の平和と繁栄はここで死んだ兵士のお陰だと、無言で訴えてくるのです。

米軍の慰霊碑もあり、戦争の悲劇がどんなに年数を経ても続きなくなることがないことを教えてくれます。
波止場への帰り道に、ここに洞窟があったという説明があり、終戦を知らずこもっていた34名の日本兵が1947年4月に降伏するまでいた洞窟が直ぐ道傍にあったのを知りました。

こうして約5時間、本当にぺリリュー島の一部しか見れませんでしたが、ここで1万2千人もの方が亡くなり、その遺骨が殆ど収集されていない現状も良く分り、私にとっては予想以上の思いを深くした1日でした。

帰りにこのぺリリューから戦闘中に伝令が出され、沖縄出身者を主体に17名がコロール島まで約60キロを4日間かけて泳いだことを本で読んだことを思い出しました。
その大半は、司令部のあるコロール島にたどり着き、戦況と孤島の守備体制についての中川守備隊長の意見書を届けたのです。

この海域は流れが強く、10年程前に日本のダイバーが何人も潮に流されて死んだことで有名になったことがありましたが、当時の兵隊は精神的にも、肉体的にも強かったとの感じです。

大小220の島からなるパラオ諸島はその自然の美しさでも抜群です。その島々の間を縫うようにして戻りましたが、同行したMさんはハワイより余程きれいで素晴らしいと感想を述べ、「親父もこの景色を見てからニューギニアに行けてよかった」と言っておられました。

そのくらい、この海はきれいで戦争などどこでしたの、という感じなのです。

『死してのち 祖国の栄えを 極楽で見ん』
これは江田島の元海軍兵学校跡にある記念館で見た ある海兵出身者の遺書です。

ぺリリュー・アンガウルで亡くなった約1万2千の日本軍兵士、そしてほぼ同数の米軍兵士、この方々の命がこのきれいな海と現在の平和を残してくれたことを痛感した一日でした。

この次に蛇足ですが、パラオと海軍乙事件のことを、少し書きましょう。

                        阿部 基治

Monday, June 20, 2005

Value for Moneyの旅だったようですね(05-6-20発)

マレーシアの旅は、消費者物価調査の旅でもあったようですね。 ところによりどうしてそんなに値段が違うのか。 今日のニュースによると、東京のコーヒーは4ドル60カナディアンで、世界一。 二番目は大阪だそうで、バンクーバーは87番目だそうです。  
岡本さんにいただいた鹿児島産の粉の緑茶も、大事に少しずつ楽しんでいますが、随分ながもちします。 美味しいですよ。 有難うございます。
井上さんとは一日つきあいました。 教会に来ていただいて、その後、例のシルビアホテル。 そして夜は柳谷さんの所で夕食をご馳走になりました。 井上さんと柳谷さんの会話がはずむ間、私は竜宮城の浦島太郎よろしく黙々と海鮮料理の皿に手をのばして、ひたすら蟹と海老をむさぼるように食べていました。
井上さんは68才。 10日間の間に、東京~ポートランド、東京~バンクーバーと2往復。 時差をものともせず、タフなスケジュールをこなすのには驚きました。
私など、ここからサンフランシスコに行くのでさえ、尻ごみするようになってしまいましたから、話になりません。 私も昔は旅が大好きだったのですが。 生まれて初めて北米大陸の海岸線を、暁の薄明かりの中で見た時は、興奮を禁じえませんでした。 あのようなフレッシュな感動を今一度覚えてみたいとは思うのですが、感受性がひからびてしまいました。 今では、カントが、ケーニヒスベルグの町を終生離れることがなかったと聞くと、「恰好いいなあ」と思うのですから、退嬰も極まれリという情けない心境です。 

ご無沙汰(阿)(05-6-19受)

マレーシアから昨日戻りました。
29,800円で往復15時間も飛行機に乗り、機内食を4回も食べ三ツ星ホテルに3泊し、朝飯はただで食べ、リゾートビーチを歩けたのですから、格安ですね。

ただ、このランクアイは海の透明度が低く<ペナンも同じ>熱帯魚など見れないので、これだけは誤算。
かなり離れた島に行かないと、スノーケルもできません。
その意味では、今後行くこともないところで低料金で視察できたのは、ラッキーというべきかも。

それにしても、現地の価格の安さにはびっくり。
スーパーでビールが350mlの缶で50円くらい、飲食店で飲んでも130円から150円くらい、食事も昼食が500円以下で楽に食べられます。
タクシーを3時間チャーターした1,800円くらいでしたから、日本人でも月3万円で暮らせるとの話は本当のようです。
もっとも、クアラランプールの空港で食事したら、かなり日本の値段に近かったので、ランクアイは田舎料金かもしれません。

お金といえば、カナダこのごろでアメリカの金の高騰のニュースがありましたが、先日面白い経験をしました。
近くの宝石店で「金歯買い取り」の広告を見て、以前金歯がみんな駄目になって、他の金属と交換したのを思い出し、その金歯を売りに行ったのです。
日本では1グラムの地金が1,500円くらいが相場と聞いていましたが、金歯は大体半値くらいで、買ってくれました。
それでも、数千円のお金を手にして、身を切られるような、嫌な思いをしました。
何か、売血したような感じがしたのです。永らく口の中で働いた金歯に見を切られる感じがしたのはもう身体の一部になっていたせいなのでしょうか。
一度しかない経験でしょうが、学生時代に周囲に売血して現金を手にして、喜んでいた友人の顔を思い出しました。
あの、塾の仲間にもいましたね、覚えていませんか?

そうそう、井上氏とは逢われましたか?
有益な時間を過ごされたことと思います。柳谷さんとも歓談されたことでしょう。
友あり、遠方より来る、また楽しからずや  の心境に浸れたら最高だったと思いますよ。

小生、帰国したら仕事が待っていて月末までバタバタしそうです。約束のメールは、少しづつ時間を作って必ず送ります。
もう少し、待ってください。

Wednesday, June 15, 2005

食べること(05-6-15)

マレーシアの旅行はいかがでしたか。 それにしても、29,800円というのは驚くべき値段ですね。 海外旅行でも WAL-MART 式の原価計算が成り立つのでしょうか。 国内旅行はもっと高いのではありませんか。 仮に大阪まで足を伸ばすとしても、その料金で行けるかどうか。 
「ぶらり途中下車の旅」をみていると、旅人が、3千円、5千円、7千円のご馳走に舌鼓をうっています。 まあ9百円ぐらいのお値ごろランチも時には登場しますが。 私は、残念ながら、年をとって味覚もにぶってきましたから、美味しいと聞いても、どこかまで足をのばして、美味を求めようという意欲が衰えてしまいました。 老化現象が色々な面で確実に現われています。
先日は、東洋史で同級だった中村勇兄がメールを呉れました。 彼はE組ですが、最近17人集まったそうです。 幹事は今さんだったそうですが、彼女も中央大学名誉教授だそうです。 「名誉」がつく年代になったのですね。 大学で教えていたとは知りませんでした。 日本の女性の平均寿命は84才だそうですから、彼女もあと10年か12年は現役で通用しそうですね。
昨晩は教会で新しい求道者のための集まりがあり、35人の若い人達に、紙のお皿とプラスティックのフォークで、パスタとサラダ、デザートの夕食を出しました。 料理人は家内で、私は材料の運び役と毒見だけ。 若い女性が台所に入ってきて、「アナタが全部の料理をこしらえたの」とからかいますから、「NO SPEAK ENGLISH」と逃げて煙に巻きました。
教会では、ほかに、月曜の夜150人のホームレスに夕食を、火曜と木曜のお昼に70人の先住民族の軽食を出していますが、若い男女で料理が得意という人達が、ボランティアとしてよくやってくれます。 イエスも「貧しい人達によくしてあげなさい」と教えているので、教会が伸びているのも、こうした若い人達の奉仕のおかげなのかもしれません。
日本の国会のことを DIET と言いますが、語源はなんでしょうかね。 もし議会でも、食べながら話し合いを行えば、議論ももっと CIVILIZED なものになるのでしょうが。 
昔ケンブリッジに夏休み行った時に、カレッジの食堂で、一人黙々と食べている学生がいました。 誰かが、「イギリスの大学では、学寮で食事を摂る回数も、卒業の資格にかかわるのだ」と言っていましたが、真偽の程は知りません。 池田潔先生のクラスではそんなことは聞きませんでしたが、ケンブリッジから遠征にやってきた学生達が、ロブスターの食べ方を知らなかったという話をされたことは覚えています。  
当時三田に、カーメン・ブラッカーというケンブリッジからの女性が研究にきていて、図書館の一隅のテーブルに斜に座っていました。 誰かが「何故福沢諭吉の研究をするんですか」と訊いたところ、「さあ、何かの因縁でしょうねえ」と答えたという話。 彼女も、当時英国の耐乏生活 AUSTERE 精神を東京に持ち込んだのか、学生ホールでの食事も、御飯にソースをかけただけの「ソース・ライス」だったという伝説がありました。 
「CHARIOTS OF FIRE」という映画で、ケンブリッジの教授と学生が正装して会食する場面がありますが、「ソースライス」とはかなり異なったものでした。 イギリス人は、「フランス人は食べるために生きる」と見下しますが、「生きるために食べる」イギリス人とっても、食事は大事な儀式の一つなんでしょう。 
ある貧しい家を突然訪れた際、食堂のテーブルの上に、夫婦二人分の皿と銀器、それにナプキンがきちんと畳まれて置いてありましたが、国民性の一面に触れたような気がしました。 それ以後何回かそんな場面に出くわしましたが、いずれも同じで、茶道のたしなみに相通ずるもののように感じました。

Monday, June 13, 2005

人生生きるのは大変(05-6-13)

関東は梅雨入り宣言と共に連日暑く、雨降らず。
それに引き換え、バンクーバーは肌ざむの気候のようですね。
モスクワより低い気候を見て、井上氏が行かれる頃には少し暖かくなるよう、祈ってます。

このところ、雑用に追われてメールを打てず、申し訳なし。
花粉症にマイナスイオン水が効くというのは、初めて知りました。
いろいろ経験されている方が、いらっしゃるのですね。参考になりました。

貴兄の眼のことは、以前より気にしていましたが、視力が落ちておられるようで、もう一度、手術の可能性を医者と相談されたらいかがですか?
カナダ、米、日本の医者の診断が必要なのではないでしょうか
小生、片目視力ゼロの家内と付き合っていますから、逆に貴兄の奥様の立場が凄くよく判ります。
奥様は恐らく、貴兄の眼の代わりを自分でされるつもりだと思いますが、その覚悟の大変さは貴兄以上だと思います。
本人は割り切って考えることが出来る部分があるのですが、傍にいるものは本人よりもっと考え込む部分があるのです。
最近、視力についてアメリカの医者が人工的に作ることを発明したようなことを聞きましたが、手を尽くせばまだ、方法があるかも知れません。
2カ月の夏休みを有効に使われたらいかがですか?

余計なことを言っているのかも知れませんが、そうだとしたら勘弁してください。

貴兄のメールを読んで、小生も他人を傷つけたことがどれだけあったかを気にし始めましたが、それもどこまで考えるかが難しく、自ら悩みます。このことを考えれば少しは人を傷つけるのも減ることは、間違いないと、自らを慰めつつ、悩みます。

明日から前に話した29,800円のマレーシア旅行に出かけます。
商社にいた旅の友と一緒に出かけます。
少しは気分転換になると良いのですがー。

今日は私信のみになりました。帰国したら、「カナダこのごろ」用のメールを打ちましょう。
井上氏と充実した時間が持てるといいですね。
未だお逢いしたことはありませんが、いつも寄稿を楽しく、感心しながら読ませて頂いているとお伝えください。

Friday, June 10, 2005

人間不信に対する返事(05-6-10)

この前いただいた貴兄のお便りの中の、「考えてみると相手は平気なわけで、人間の価値など何ではかれるのか分りません。 貴兄の遭遇した人たちも今、平然と暮らしているのでしょう。」という文章は、心にズシリと重みを感じました。 本当に、「これが人間の本質だとすると、むなしいですね。」というお言葉、まったく身に沁みました。 また、私も同じような思いを、知らないうちに、誰かにさせていたこともあるのでしょう。
貴兄も神経科の医者に暫く通われたのですか。 似たような思いをされた方がおられると知り、気が幾分楽になりました。
この週末、バンクーバー・ガーデン・ショーに行ってきました。 古い屋敷街の広大なワンブロックを植物園にしてあるのですが、年に1回、大小のテントが数多く張られ、花やプラント、絵画やアクセサリーまで並べた即売村ができます。 それに行くのは、今年で3回目ですが、いささかショックだったのは、同じ情景に1年ぶりに接してみて、視力の衰えがはっきり判ったことです。 様々な趣向をこらした見本の庭園が、すべて濃霧の中でした。 
心の病よりも、目の病の方に注意を向ければ、過去の亡霊に悩まされる度合いも少しは減るのではないかと、自省したことでした。
そのショーに来ていたのは、殆どが白人のお年寄り。 それもご婦人が圧倒的でした。 アジア人の姿が見えないのでオヤ?と思いました。 
バンクーバーは、昔は知らず、今は半分がアジア人の町です。 ダウンタウンに行っても、モールを覗いても、大半は中国系の人達。 それが、ガーデン・ショーでは殆ど見かけません。 香港の人はガーデニングに興味がないのか。 それにしても白人ばかりとはおかしい。 うちの辺りは香港ストリートと言われるくらい、中国人が多いのですが、その庭の手入れをするのは、白人の庭師。 昔は、日本人が、白人の家の芝を刈っていたものです。 私も移住して来た当初、他の日系の移住者から、「お宅もガーテナー?」と訊かれたものです。 その日本人らしき人達も、ショーの会場では見かけませんでした。
うちの辺りは、当然昔は白人ばかり住んでいた所です。 ところが香港の中国返還が近づくにつれ、どっと香港から移住者が殺到。 そして、白人の2~3寝室の住宅を50万ドルで買い、家を取り壊し、さらに50万ドルかけて、7寝室5浴室3~4台車庫の豪邸を建てたのが香港ストリートです。
白人のお年寄り達は、50万ドルを手にして、郊外の新築の家か、コンドミニアムに移り住みました。  ですから、ガーデン・ショーに来ていた大勢の白人は、一体どこから現われたのか。 不思議に思いました。
先ほどグーグルで慶應の文学部の項目をみていたら、可児弘明という名前が見えました。 私どもの同学年で、「可児」という人がいましたが、一年留年したのか、次の年のクラスのに移っていました。 学生時代から東京の郷土史を手がけていた俊秀でした。 グーグルによると、その後慶應の教授になり、アジア事情の権威として、数々の業績を残したようです。 スマートなセンスのいい人でしたから、東洋史や考古学の先生として、学生のよき指導者になられたことでしょう。 50年ぶりにインターネットで遭遇した友人でした。
貴兄がもし仏文に行っていたら、恐らく教授の道を進んでいたかもしれませんね。 私の中学高校の頃は、小林秀雄が仏文派の旗手としてまばゆいばかりの存在でしたが、少年時代上京した折、三越でサイン会があると聞き、何はさておき行きました。 小林先生の尊顔は畏れ多くてよく見詰めることもできなかったのですが、墨痕鮮やかに書かれた署名は、「小丼」に見えました。 

Wednesday, June 08, 2005

人間不信(05-06-08)

安城家の話から、貴兄の凄い経験談をお聞きし、貴族とか華族とかの名称は如何にあてにならないかわかりました。
日本の華族は、安城家のように家を売るだけで悲観して自殺を図る<これが森雅之です>のですが、没落して自殺をしていたら、われわれ貧乏人は命がいくつあっても足りません。

それにしても、貴兄の遭遇したお偉い女性達の生き様はすさまじいものですね。貴兄が医者に通うようになったのも良く分ります。
小生がサラリーマンを辞めた経緯は、カナダでお話したと思いますが、小生も暫く神経科の医者に通いました。
無実の罪を全部かぶせられただけで、参ってしまったのですが、考えてみると相手は平気なわけで、人間の価値など何ではかれるのか分りません。

貴兄の遭遇した人たちも今、平然と暮らしているのでしょう。
これが人間の本質だとすると、むなしいですね。

ところで、天皇ご夫妻が今月、サイパンへ行かれるのをご存知ですか?
大東亜戦争の戦地に行かれるのは、沖縄に次いで二番目だと思いますが、昭和天皇が行かれたら、もっと良かったと思います。

小生も戦中派というか空襲で火の中を逃げ回り、焼死体の中を学校へ歩いていきましたが、戦地へ足を運ぶのは勇気がいりました。つらくて行けなかったのです。
沖縄へ行ったのも平和の礎が出来てからで、あの日米の戦士、民間人の亡くなった方の名前を見ていくだけで、半日もかかりました。ひめゆり部隊の洞穴も、海軍の司令部跡の洞窟も、涙無しには見られないものでした。

サイパン、グアムへ行ったのはやっと10年位前からですが、観光地化されていて、とても戦場には思えない風景が立ち並びます。僅かに残された戦車や軍の建物跡が往時を偲ばせるくらいです。
ただ、サイパンのスイサイドクリフは、そのままで、小生もここで頭を下げましたが、そのときVサインをして写真を撮っていたオバちゃんがいて、そのときはさすがに小生も堪忍袋の尾が切れ「ここがVサインをするところですか!」と怒鳴ってしまいました

そこまで行くときに、バスの中で当時の原住民の方が戦争の様子を語り、日本語で日本の歌まで歌ってくれたのに、そのオバサン連中は何も話を聞いていなかったというのです。

こんな日本人を助けるために、日本軍が戦い、命を捨てたとは絶対、思いたくありません。戦った米軍も同じでしょう。
天皇陛下のためでもない、祖国、自分の親、兄弟姉妹そして妻子を助けるために、兵隊も民間人も戦い、命を捨てたのです。
知覧、鹿屋、江田島、霞が浦などに残されているたくさんの遺書を読めばそれははっきりと分ります。
特に、特攻隊のごとく必死の攻撃に出た方は、その思いで出撃しなければ、死ぬに死ねなかったと思います。

天皇ご夫妻があの岬の慰霊碑の前で、どんな祈りを捧げられるのか、気になります。

小生、未だにハワイへ行っていないのですが、あのアリゾナ記念館で頭を下げねばならない悔しさを、外務省のお役人は分っているのでしょうか。
開戦文書を渡すのが遅れたのは害[ALOHAさんの優れた命名]務省の怠慢だったことは良く知られており、害務省も認めていますが、当時の責任者の参事官はのちに外務次官からなんと駐米大使になっています。その下の書記官は、やはり外務次官になり、スイス大使になっています。

つまり、二人とも全く責任を問われていないのです。

開戦文書といっても、「開戦」の文字はなく交渉打ち切りの内容、しかもその文章を英文タイプに打てたのはこの書記官だけ、というお粗末さ。そして、文書作成の遅れによる手交の遅延。山本五十六があれだけ気にした事柄を、害務省は平然と踏みにじり、問題にもしなかったのです。

それに引き換え、6千人ものユダヤ人のビザを発行し命を救ったリトアニア領事代理の杉原千畝氏は、国命に背いたためか、戦後害務省を辞めさせられているのです。

戦後の害務省による遺骨収集作業もなぜか、小規模にしか行われず、先日のパラオの沈没船の遺骨も見つからないとして、作業打ち切りになりました。

ODAに出す金があるのなら、もっと現在の日本を築く基礎を作ってくれた戦没者に、供養をかねてお金を投じて欲しいものです。

今年は敗戦60年、次回にでも、小生が旧戦地を訪問した話をメールしましょう。

Monday, June 06, 2005

再び花粉症について(05-6-6)

花粉症は潜在的アレルギーを持った人が6,7年、多量に花粉を浴びるとその年以降毎年発生する。NHKの放送にもそのようなドキュメンタリーが10数年前ありました。従って、日本で花粉症が発生した後、ニューヨーク駐在時にも周りには花粉症の人は殆ど居なかったにも拘わらず少量の花粉にも花粉症が発生してしまいました。 natural forestationでは花粉症はあまり聞かれないが人工的に偏った植林は人間にもバランスを失なわせ花粉症に罹ることになる。ご参考まで。
N.O 東京

Sunday, June 05, 2005

ごきげんよう(05-6-5)

先日、「安城家の舞踏会」という映画のことを書いておられましたが、あれは昭和22年の作品ですか。 とすると、私も、焼け跡の映画館でみたわけで、それにしては、一つか二つ、場面を覚えています。 あれには森雅之という俳優が出ていたでしょうか。 名前もうろ覚えで怪しいのですが、それこそ華族の出の毛並みのよい・・・。 でも、ご指摘の 「ごきげんよう」 という挨拶については覚えていません。 
モントリオールで3年間日本語放送をやっていた時、現地で加わった東京出身の女性がいました。 50前後だったでしょうか。 都会的な人でしたが、その人が、放送の始めと終わりでいつも 「ごきげんよう」 と言うので、平民上がりの同僚オバタリアンが 「それはおかしいんじゃない」と一言チクリ。 「ごきげんよう」の女性は、育ちをそれとなく示していたのかもしれませんね。 1990年前後でしたが。 その人は東京女学館でしたが、あそこはお姫様学校だったのですか? 
もう一人、学習院大卒という女性もいましたが、あれは大学だけ学習院だったのかな? モントリオールで、詐欺師の妾になっていましたが、日本語課のイギリス人が、その妖婦の素性も知らず夢中になって、無理して自分の秘書にしたのはよいが、よくマフィアの餌食にならなかったものだと思います。 尤も、この詐欺師、国外に逃亡したものの、観念してカナダに戻ったところを御用。 その妾も、働かざるを得なかったのでしょう。 盗みを働くドケチなイギリス人の寵愛を得て、何とかの威を借る牝狐に変容していました。
さらにもう一人、女子学習院から薬大に進んだ人がいましたが、この人だけがマトモでした。 我々日本語課の BITCHes や SONs OF A BITCH に愛想を尽かして、さっさと辞め、「セイセイしました」 と晴れ晴れとした顔をしていました。 この人が上流階級の出であったかどうかは知りません。
しかし、上記の妖婦など、まだよい方で、その上を行く、石川五右衛門の妾みたいな毒婦もいました。 牛がクシャミをしたような容貌で、盗みは働く、嘘はつく。 入社試験にも落第したのに、上にいたNHKOBの脇をどうくすぐったのか、東京女学館を押し退けて、自分が居座り。  あれほどタチの悪いイギリス人の男と唐人お吉のお化けは、生まれてこのかたほかに見たことがありません。 私もそういう、地獄とは言わないが、煉獄よりも悪い所に、3年いて、性質も人相もますます悪くなりました。 ですから精神科医の世話にならなければならなかったのです。
私は鹿児島ですが、昔下層武士の住んでいた辺りには、よく「男爵何某生誕之地」なんて小さな墓石程の碑が幾つも建っていたものです。 西郷隆盛や大久保利光の生誕の碑は、もっと立派で大きく、小公園になっていました。 森雅之さんも、ひょっとしたら、三代ぐらい前は、そういった武家の家柄だったのかもしれません。 有島兄弟も、元はといえば、鹿児島だったのでは?  そういえば、F組に有島さんという人がいましたが、あの人もその一門だったのでしょうか。 
そういう次第で、薩摩や長州から、新華族がどっと輩出したのですが、我が家は、四国の田舎の小藩の家来。 殿様がやっと男爵だったのですから、戸籍が士族に連なるのが精一杯。 いわば零細企業に仕える三等サラリーマンといったところです。 官軍にも縁が無かったのが運の尽き。
それに比べて、薩摩から江戸に出てきた芋侍共は、出世頭は明治政府の顕官となり、エスカレーターに乗り遅れた足軽連中は、「オイコラ」と威張る巡邏卒に。 そして中間管理職は、「府民の情操のためにセイゲン、ジョウバンシンの類を奨励すべし」と布令を流したのでしょう。 私なんか、今でも、清元、常磐津については全くのツンボですが。
イギリスでも、庶民の上流階級に憧れる気持ちは強く、上流の人が紅茶のカップを手にする時、小指をちょっと上げると知れば、それが忽ちミドルクラスからワーキングクラスまで右へならえ。 すると上流は、また別な指を使うといった話を、ケンブリッジ大の夏季講習で聞きました。 
ただ、イギリスの若い貴族は、見ただけでは判りません。 侯爵でもヒッピー同然の恰好をしていますから。 しかし、カフェテリア(イギリスではキャンティーン)に並んで、「エクスキューズミー」と声を発すれば、その人の階級が知れると、BBCの番組で言っていました。 私には皆目わかりませんが。 

花粉症論議(05-6-4)

小生の花粉症について、その原因につき 諸説が出てきて 当の本人は、ティッシュを片手に メールを拝見しております。 ALOHAさんの化学肥料説、東京N.Oさんの大量花粉発生説、何れも説得力があり、うなずいてしまいます。 
ただ、今年の症状は 小生も初めての経験で、たまたま、昨年転居して 近くに森のある現住地に移ったので、それが発症の原因なのか、とは思っております。 となると、ALOHAさんの言われる 体質に その遠因が作られ、東京N.Oさんの 花粉が多い地区に たまたま、転居してきたので 発症したとも思われ、お二人とも、正解という気もします。 今まで花粉症にならなかったのも、なぜかよく判りませんし、ここに住んでいる人に、花粉症が多いという話も聞きません。 まあー、何れにしろ 命を取られるとも思えず、ティッシュと眼のかゆみを抑える 目薬があれば 過ごせますから、頑張ってみます。 それにしても、この欄に登場される方の 博識には敬服します。 小生は勉強大嫌い人間だったのがうんのつきで、花粉症のことなど、なにも知りませんでした。 
この欄を通じて勉強したいと思いますので、こうした諸説が出ることは大歓迎、 まだ、花粉症の原因、治療などについての知識、意見をお持ちのかた、知っておられる方は、ぜひ、教えてください。 おそらく、カナダでもこの病気はあるはずだと思います。 ただ、日本のように 天気予報のときに 花粉の発生予想を流す国は 余り聞きません。 最近は この花粉情報も 流れない時期になったのに、まだ悩んでいる小生は、かなり流行おくれなのかもしれませんね。
情報をお待ちしています。
阿部 基治(2005/06/04)

Saturday, June 04, 2005

大場尚文(05-6-4)

花粉症は 同時に多量に発生した花粉が潜在的アレルギー性を持った人に 6,7年連続して照射されると 顕在化して 花粉アレルギーが始まる。 即ち、戦後、燃料難で禿山になった山 成長性の高い杉を 一斉に植林したため 数十年後に 一斉に花粉が発生したことによる。 通常、山は種々の木が 地理的、時間的に分散して 調和の取れた山林を形成するが、一極集中型植林が 過度の花粉を発生させ、このような花粉症公害を引き起こした 人災 である。 阿部氏の花粉症と化学肥料との因果関係の論拠が不明瞭である。

東京N.Oより。 (2005/06/04)

花粉症のこと(05-6-4)

花粉症の事 
この症状は戦前は全く聞か無かったのではないでしょうか?子供の頃,年中杉林であそんだ記憶がありますが誰も花粉時期に花粉症になったという事を聞いた覚えがありませんでした。
考えるに戦後の新しい病の一種で定かでは有りませんが戦後十五年ー二十年間ぐらいの間には発生して居らなかったのでは無いでしょうか?
原因の一つに考える可き事柄として科学肥料・農薬の害を考えて良いのでは無いかと考えます。と申しますのは終戦後すぐ農産物増産の手段としてGHQが米国の化学肥料を紹介し製品を送り込んだり,米国の生産会社が日本の化学会社と合弁又は技術を輸入したりし国内生産を始めました。これが始まりでそれ迄の下肥,堆肥を中心とした有機肥料の使用を止め,もっぱら化学肥料を大々的に使う事になりました。従い知らず知らずの内に野菜などに含まれた科学成分が体内に蓄積これが体のバランスに影響を与えて居るものと考えます。お陰で回虫が居なくなった様ですが・・・今じゃあれも必要な虫だといい始めております。米国で痩せさせる為わざわざ回虫を体内に入れる療法も出てきております。
戦前生まれの人で晩年にアレルギー性が出てくるのは正にこれ等が原因と考えますが。
一例を挙げますと昔は(戦前は)鶏糞と言うのは植木の肥料に燐分を含んで居り非常に良い肥料であったと記憶します。 然るにかまぼこ兵舎のような建物内部で一度に数千羽いや数万羽を飼う様になり一羽が病気に罹ると建物内部の全羽に病気が移るので餌に抗生物質を混合し,所謂配合飼料を与えるようになりました。
従って鶏糞にはこの抗生物質が混ざって排出される為これを土に撒けば土中のバクテリヤは死に土は死んでしまう訳であります。
土は生きて居る訳で所謂土の中のバクテリヤを食べて生きておるミミズが居ない土となる訳です。化学肥料を続けて撒いておれば土は死ぬわけです。又牧草の発育の為に撒けば当然牛がこの草を食べ牛乳の中には成分が残りこれを飲んだり体内に蓄積した肉を食べたりチーズを食べ続ければ当然身体に上述の野菜の様に人体の体質に影響を及ぼす物と考えます。
カリフォルニア州の綿花畑オレンジ畑もこの化学肥料で土が死に砂漠化した処が随分多いようです。
これ等の結果有機農業が見直されて来た物と考えます。田んぼにザリガニ・泥鰌が居なくなって久しい現状ですが。
これは妙な事に化学肥料の管轄が製造過程が化学工業の為か通産省の管轄であったと記憶します。故に農林省。厚生省との連携も無く縦割り行政の最悪の見本として今日に至って居るようです。
現在生まれて来る三割を超える赤ん坊がアレルギー体質と聞くに及び政府が何も手立てを持たぬ事に疑問を感じる次第です。
余談ですが野菜、肉の世界最高に旨い処はアルゼンチンだと信じます。彼の地はラプラタ川に運ばれた養分をたっぷり含んだ堆積土でアルゼンチン農業は肥料が要らぬと言われた処で従い良い牧草が生えそれを食べた牛。羊は肉が最高においしい訳で本当の肉の味が致します。
日本の松坂・神戸・米沢 等,等の牛肉は肉の味でなく脂の味です。それが証拠には赤みの米国・豪州の肉に和牛の脂身を薄切りにして混ぜて似てみると判ります。日本では残念ながらコウテイ疫の為輸入禁止ですがドイツのベルリンに行けばARGENTINE STEAK RESTAURANTに飛び込めば堪能出来ます。
以上  ALOHA163 (2005/06/04)

Friday, June 03, 2005

原節子のことども(05-6-3)

井上さんからのメール、有難く読ませていただきました。
小生の拙いメールでも読んでいただける方があるのだと、半分びっくり、半分貴兄のメルマガの凄さを尊敬しています。

花粉症はどうやら落ち着いてきましたが、新聞によると、今年の花粉の量は昨年の10倍だったそうです。
花粉症なんて今の弱い若者がかかる病気くらいに思っていたのに、こんなにひどいとは驚きました。やはり、体力が衰えているのでしょうか。情けなくなります。

今日は時間がないので、井上氏への礼状だけになりますが、また、ゆっくりメールを打ちます。

井上様
小生の拙いメールをお読みいただき、有難うございます。
もとは重松大兄への私信なので、読んでいただく様な内容ではないと思っていますが、昔のことなど思い出していただければ幸いです。

原節子さんは、高峰秀子さんがエッセイを書いたり、高峰三枝子さんはテレビやCMに出られたり、田中絹代さんは生涯現役を貫かれたのに比して、まったく沈黙を守られているので、益々神秘性をたかめておられるようです。
ALOHAさんが鎌倉育ちとのことなのでよくご存知だと思いますが、原さんは鎌倉の浄明寺というお寺の近くに居を構えてひっそり暮らしておられるようです・会田昌江さんとしてー。

原さんについては、小生同様一度も原さんに会っていないのに熱烈なファンである、千葉伸夫さんという作家が「原節子伝説」なる本を書かれており、これ以上のものはもう出てこないと思います。
なにしろ、笠智衆さんが亡くなったときも姿を見せず、1962年の引退{正式な引退表明はない}後、翌年小津監督の通夜に姿を見せただけですから、どういう生き方をされているのか全く分りませんが、引退前に「ファンの期待を裏切るような私生活はしない」といっていましたから、きっとつつましやかに暮らしておられるのだと思います。
マスコミが騒がないのも、こうした生き方に共鳴しているせいだと小生は、納得しているのですが。

また、何か昔話でもメールします。
                          阿部 基治

ALOHAさんへの礼状(05-6-2)

重松大兄
そうですか、毎日歩いてますか。チャイナタウンを歩いたことを思い出しました。
何か目的をもって歩くのはいいけど、ただ歩き回るのは疲れるでしょうね。同情半分、運動不足解消に歩け!半分。
小生は雨が降ったお陰で、少し花粉症が楽になりました。

アロハさんへのお礼
情報、有難うございます。カナダの新聞でも被害はないと報道されているようですね。日本の潜水艦と断定しており、今までの調べとほぼ一致していて、有難うございました。
アメリカの灯火管制の報道は、日本の新聞にも載っており、これも一致します。
中立国経由で、当時でも情報はかなり正確に入っていたことが分りました。

新聞が印刷できないのは、恐らく著作権の問題だと思います。
国会図書館でもコピーする前に著作権のチェックが必ずあり、そこでオーケーを貰わないと、コピーしてもらえません。
特に署名記事があれば、新聞といえども難しい場合があるようです。
私も著作権使用料なるものを僅かですが貰っている身なので他人の権利も尊重します。

これだけでも情報をいただけると、今まで調べたことの裏づけができ、助かります。
ただ、伊26の艦船名はやはり戦後に分ったものでしょう。
これを、いつ、誰が、なぜ、どうやって、どこで調べたのかが、宿題で残りました。いつか、この宿題を解きます。

映画のほうは、忠臣蔵だとすると原節子の最後の出演作です
私も見たはずですが、三橋達也のことは覚えていません。

大日方伝は奥さんの松園延子さんとブラジルへ渡られたと伺っていましたが、お逢いになられたのはその前でしょうか。

俳優という仕事は、向き、不向きの要素がかなりある職業だと思います。おっしゃるとおり、複雑な要素の塊です。
顔にしても、水戸光子さんや岡田茉莉子さんのように一定の方向から見たときが、<美人>という方もおられますし、身長は大きくないほうが女優さんはもてたようです。
河内桃子さんという東宝の美人女優がいましたが、せいが高かったために男優とのからみで不向きとされ、余り売れずに終わってしまいました。

何か人を惹き付けるものを持っている方が、成功されるようですね。それが何か分らないところが、俳優の魅力なのでしょう。

最近のタレントなる方々を拝見していると、こうした魅力のある方に出会うことが少なくなりました。
なぜか分りませんが、ツブが小さくなったとでもいうのでしょうか、もう放送の世界からは足を洗ったので、昔のことは言ってもいいのかもしれませんが、まだ、ノーコメントにしておきます。

いろいろ教えていただき、感謝しております。
                             阿部 基治

ALOHAよりABEさんへ(05-6-3)

ALOHA163(アロハいちろうさん)から、阿部さんに CKNOWLEDGEMENT のメールが入りました。 
彼は、幼稚舎から昭和33年政治科卒。 三菱商事に入って、間もなくカイロ駐在。 アラビア語は、英国外務省のレバノン研修所で学び、今でも喋れるようです。 柔道部出身のこごついタイプなのに、どういうわけか、本名も経歴もマル秘扱いにしておいてくれというので、ご了解願いたく。 
そういうわけか、礼状も、阿部さんの文章をそのまま拝借。 『 』 で囲んだ部分だけが、今回の彼のタッチです。 ご諒承ください。
重松彬
= = = = = = = = = =
[『不精をして下記にてご返事申し上ぐ。』
----- Original Message ----- From: "Shigematsu Akira" <shigematsuakira@hotmail.com>To: <ichirosakakura@novus-tele.net>Cc: <aloha163@yahoo.co.jp>Sent: Friday, June 03, 2005 12:25 AM
いちろうさん、 阿部さんからのメールです。 この前の電話で触れておられた映画会社、東映が東宝 だったのでしたっけ。 私の勘違いかとも思いますが。 彬 拝 = = = = = = = = = = アロハさんへのお礼
情報、有難うございます。カナダの新聞でも被害はないと報道されているようですね。日本の潜水艦と断定しており、今までの調べとほぼ一致していて、有難うござい ました。どう致しまして、少しでもお役に立てば何よりです。
アメリカの灯火管制の報道は、日本の新聞にも載っており、これも一致します。 中立国経由で、当時でも情報はかなり正確に入っていたことが分りました。 新聞が印刷できないのは、恐らく著作権の問題だと思います。 国会図書館でもコピーする前に著作権のチェックが必ずあり、そこでオーケーを貰わ ないと、コピーしてもらえません。 特に署名記事があれば、新聞といえども難しい場合があるようです。 私も著作権使用料なるものを僅かですが貰っている身なので他人の権利も尊重します。 これだけでも情報をいただけると、今まで調べたことの裏づけができ、助かります。 ただ、伊26の艦船名はやはり戦後に分ったものでしょう。 これを、いつ、誰が、なぜ、どうやって、どこで調べたのかが、宿題で残りました。 いつか、この宿題を解きます。
『戦後何かの雑誌で記事が出ておりました。雑誌名失念。』 映画のほうは、忠臣蔵だとすると原節子の最後の出演作です私も見たはずですが、三 橋達也のことは覚えていません。
『この忠臣蔵は大石役は確か団十郎 妻原節子 それに加山雄三も出演三橋達也は堀部安兵衛役で有ったと考えます。』 大日方伝は奥さんの松園延子さんとブラジルへ渡られたと伺っていましたが、お逢い になられたのはその前でしょうか。
『あれは岡村文子さんが未だお元気であったのですから昭和 25-6年頃でしょうかその後確かにBrasilに渡られたと聞きました。』 俳優という仕事は、向き、不向きの要素がかなりある職業だと思います。おっしゃる とおり、複雑な要素の塊です。
顔にしても、水戸光子さんや岡田茉莉子さんのように一定の方向から見たときが、<美人> いう方もおられますし、身長は大きくないほうが女優さんはもてたようです。
河内桃子さんという東宝の美人女優がいましたが、せいが高かったために男優とのか らみで不向きとされ、余り売れずに終わってしまいました。 何か人を惹き付けるものを持っている方が、成功されるようですね。それが何か分らないところが、俳優の魅力なのでしょう。 最近のタレントなる方々を拝見していると、こうした魅力のある方に出会うことが少なくなりました。
『砂利タレには うんざりです。  それと TVに出演の 自称芸能人の 殆どの連中の 教養の無さ 常識の無さ,馬鹿丸出しには うんざりで 日本の TVは News しか 極力 見ないことにして居ります。  あの連中に 尤も 教養・常識を求める方が ドーカして居るのでしょう。』
なぜか分りませんが、ツブが小さくなったとでもいうのでしょうか、もう放送の世界 からは足を洗ったので、昔のことは言ってもいいのかもしれませんが、まだ、ノーコ メントにしておきます。 いろいろ教えていただき、感謝しております。
『滅相も無い!
阿部 基治 先生 殿  
ALOHA163 拝』 

ALOHAさんGLOBE&MAIL調べ(05-6-2)

本年4月29日付 阿部先生の日本海軍の当時世界に誇れる伊25・26号艇のCanada Vancouver島攻撃の日本各新聞の記事の紹介を拝読。被害地のCanada の新聞は果たしてどの様に発表して居るか早速調べました結果取り急ぎ下記の通りご報告申し上げます。
尚記事は如何いう訳か印刷はおろか転送も出来ぬ様に成って居りますのでほんのさわり丈下記致します

THE GLOBE AND MAIL
TORONTO MONDAY JUNE 22 1942
一面
VANCOUVER ISLAND SHELLED BY ENEMY SUB
New Landing Effected BY Jap In Aleutians
No Damage Done, Coast Chief States;
First Enemy Action
Victoria, June 21 (CP)
A proeling enemy submarine wa hunted in the waters off British Columbia'scoast tonight after delivering a half hour, but harmless, shelling attack on the remote West Coast radio telegraph station in the first direct assault of the war on Canada's shores.

云々と続き此処時間に攻撃がは土曜日の10:35(1.35AM EDT) より約
三十分に渡り攻撃を受けたがあまり岸に近寄っては居らなかった様で海岸。、岩等に当たり旨く飛んだ弾でRadio 局の窓が数枚割れたに留まった・

同じ一面には US.WEST COAST ORDERS DIM-OUT
SeattleJune 21 (BUP)
The state of Washington and Oregon tonight ordered dimouts of their
costlines following the shelling of Estevan Point, Vancouver Iland by an
enemy submarine. 云々

二面には
Japs's Shelling Held Harmless 云々

他に日本からの樺太、アリュウシャン列島、Vancouver 島までの夫々の地より距離を入れた地図がありました。

以上取り急ぎご参考まで ALOHA163

Wednesday, June 01, 2005

お疲れさん?その通りです(05-6-1)

昨夜深夜になって、というよりも今朝明けがた近くまだ暗いうちに、「岡本さんのコメントを暫く載せていないなあ」と思いつき、まとめて二つ出させていただきました。
奥様のご健康に関するくだりは、勝手ではありましたが、一部省略させていただきました。 お許し願います。
しかし、音楽や映画についての思い出やデータは、このまま眠らせておくのは勿体ないので、少し遅くなりますが、皆さんのご要望にお応えしたいと思います。 
これからも、まだ発表していない、内容の濃いコメントがあるので、それを引き続き PUBLISH したいと思っています。 
私はこのところ歩かされて、ふーふー言いながら、重い足を引きずっています。 一昨日は1時間半、昨日は2時間、雨の中を傘をさして、どこまで続く水たまりと、行軍しました。 今日は車で出かけますが、明日はまた2時間の予定です。